2016年3月3日木曜日

2016春被災地ボランティア 1日目

文責:宮崎公立大学二年 池山奈帆

今日からいよいよ初めての被災地ボランティアが始まりました。
朝宮崎空港を出発し、伊丹空港経由で13時過ぎに仙台空港に到着しました。
そこからは、請戸地区にもともと住んでいた熊田さんに浪江町を案内してもらいました。
仙台空港から移動の際、線量計でずっと放射線量を測りながら進んでいました。多くの場所で線量は低く、中には宮崎よりも低い場所もありました。また、移動しながら津波が到達していた場所などについても教えていただきました。


仙台からの移動の車内から見ていた景色は、とても静かで落ち着いている街並みでした。とてものどかそうな雰囲気を感じていました。しかし、突然検問が見えました。通過する際には、通行証が必要になるそうです。

一歩踏み入れるとそれまでの街の雰囲気とは一変していました。震災の影響を受け、倒壊している家や、斜めになった状態のままの家が多くありました。さらに、道路を通る車両は、トラックがほとんどで、人も工事、除染関係の人ばかりでした。
途中、小学校に寄りましたが、教室などに残っている時計は震災当時の時間で止まったままでした。教室の黒板などは取り除かれていましたが、あるメッセージが壁に残されていました。このメッセージを見た人たちは勇気をもらえただろうなと感じました。





その後、浪江駅周辺を見に行きましたが、夕方なのにそこにいる人たちは作業着を着ている人たちばかりで異様な光景でした。

また、帰りに幾つかのお店の建物を見ることができましたが、洋服店なども工事関係の事務所になっていてなんとも言えない気持ちになりました。



今日、初めて福島を訪れ、現状を見ました。やはり、原発の影響は大きく放射線量は宮崎とあまり変わらなくなっているのに、原発が近い影響で自分の家に帰ることができないのは私たちにはわからないほどの辛さなんだろうなと思いました。家の場所まで行けても、そこでいつ生活を再開できるかわからない人たちが多くいることを改めて実感しました。明日からは南相馬市のボランティアセンターなどで活動を行う予定なので、少しでも多くのことを見て、感じて帰りたいと思います。

被災地ボランティア1日目
文責:宮崎大学 1年 森谷尚之

今日から東日本大震災の被災地ボランティアが始まりました。
朝から飛行機で宮崎→伊丹→仙台まで行き、そこから福島までレンタカーで移動しました。

私は、東北地方に生まれて初めて行ったので震災から5年たった今の現状は一体どれほどだろうかと思い、仙台に足を踏み入れました。まず、仙台空港に着いて最初に驚いたことは津波が到達した時の高さを示した柱があったことです。震災当時、テレビで仙台空港の滑走路が津波にのまれているVTRを見て、ヤバいなと思ったけど、実際に3m越えがこんなに高いのを目の当たりにしたらどれほど津波が大きかったのかと思い、ゾクッとしました。




それからレンタカーで実際に家などが流された南三陸町の請戸地区に移動しましたが、移動中ところどころに線量計があり、○○μ㏜という表示がいたるところにあり、宮崎では普通なら存在しないのに福島・宮城では当たり前のようにあると考えると未だに震災の影響が残っているのだと感じました。

その後、請戸地区に近づいてくるにつれてバリケードがあったり、検問があったりと街並みが少しずつ変わっていくのが見るだけで分かっていくのでしたが、いざ、行ってみたら見るも無惨な姿をした家や建物が未だに残っていて震災から5年経っているのにまるで震災当時と変わらないような津波の傷跡を見た時は唖然として言葉に表すことができませんでした。レンタカーで運転して頂いた方が以前請戸地区に住んでいたが、津波で家を失った被災者の1人でした。彼は「原発の影響で自分の家にも帰りたくても帰れない。」と残念そうにおっしゃっていて、聞いていて自分ではどうすることもできないことに悲しくなりました。



その後、浪江駅周辺に行きましたが、原発の影響で人が立ち入ることができず、街が街ではないかのように静まり返っていました。

そんな状況が今福島でも残っています。驚きを隠すことのできない1日でしたが、だからこそ、これから求められることを考えて、明日以降頑張りたいと思いました。


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