2015年9月28日月曜日

茅ヶ崎サマーキャンプ4日目

文責:田代茜
今日は、茅ヶ崎サマーキャンプ最終日!!
朝起きると「帰る準備もう出来てる?」という確認から始まります。子どもたちからは、「もう帰るの?まだ茅ヶ崎にいたい」という声が聞こえます。準備ができたところで、朝食です。昨日帰ったはずの東京からやってきた学生がいて、子どもたちは大喜び。ご飯を食べ、再び遊びました。

時間が過ぎていくのは、あっという間。ついに帰る時間がやってきました。荷物をつめ、バスに乗り始めると小学生もボランティアも涙があふれていました。

昨晩、宿泊制限があり、一度家に帰った東京の学生が3日間の疲れがあるにもかかわらず、寝ずに家でクッキーとホットケーキを焼いて、お土産に持ってきてくれました。

帰りのサービスエリアで子どもたちは、美味しくてあっという間に食べてしまいました。
(作ってくれたクッキーを持って集合写真)

お昼は、埼玉の公園で、朝、茅ヶ崎で準備していただいたサンドイッチを食べました。

食後に公園で思いっきり走ったり、お昼ご飯で包んであったアルミホイルを丸めてキャッチボールをしたり、鬼ごっこしたり、福島に帰ると制限される家庭もあるかと思うと、複雑な心境です。

バスでの長旅でしたが、ほぼ予定通り5時に郡山駅、6時に福島駅に着き、無事茅ヶ崎サマーキャンプを終了することができました。
(福島駅をバックに最後の集合写真)

茅ヶ崎で協力していただいたみなさん、ありがとうございました。

今回、アースウォーカーズとしては初めて茅ヶ崎の団体とコラボしました。

いろいろ反省点や改善点はあったものの、①福島の子どもたちの保養の機会が増えたこと、②今回はじめて福島支援に関わったボランティアさんと出会えたこと、③地元茅ヶ崎の協力者たちの熱い方々と出会えたこと、④他団体とのコラボする際の準備や条件の整備などの経験ができたこと、などなど他にもありますが、茅ヶ崎での企画に関われて良かったと思っています。

今後とも、福島の子どもたちの保養が継続できるよう、頑張っていきたいです。

2015年9月24日木曜日

茅ヶ崎サマーキャンプ3日目

文責:田代茜
今日は、まず初めに海遊びに行きました。海へ着くと、茅ヶ崎の方が砂浜での運動会を企画してくださっていて、茅ヶ崎の子どもたちとも関わることができました。

運動会では、最初に年齢ごとにビーチフラッグをしました。砂まみれになりながら、一生懸命行っていました。次は、ビーサンとばしです。ビーサンを飛ばし、コートの中に入らなければファールトなるということでした。福島の子どもたちの男の子小学生チームは、全員ファールになり、子どもたちは、笑顔がいっぱいでした。次に、砂の入った袋を遠くに飛ばすというのを行いました。これは、簡単そうで難しかったです。子どもたちは茅ヶ崎のかたと一緒に楽しそうに行っていました。この中で、一番輝いたのは最年少の保育園の男の子でした。小学生未満の部でほとんど1位になっていました。その後自由時間となり、みんなで海に入り終始笑顔のたえない子どもたちでした。
(海の中ではしゃぐ子どもたち)

いっぱい動いてお腹ペコペコになった子どもたちは、キャンプ場に戻りBBQを行いました。海で協力していただいた方々も参加しました。焼いたお肉をお皿に乗せると一気になくなり子どもたちは、ぺろっと食べてキャンプ場内で遊びました。

次に行ったのは五平餅作りです。割り箸にツヴしたご飯をくっつけて、少し乾燥させた後。自分で焼きました。五平餅を食べた子どもは、初めての子が多くこんな食べ物なんだと美味しそうに食べていました。

次にダイヤモンド富士を見に行きました。あいにくの天気で見ることができませんでしたが、夕方の少しひんやりとした風と海の景色に子どもたちは、静かにじっと海を見つめていました。最後に本当は出るはずだった富士山をバックに写真を撮りました。
(見えるはずだったの富士山をバックに集合写真)

次に夕飯です。夕飯はミートスパゲッティでした。素材を活かした味があり、美味しくいただきました。

今日1日は、とても濃い一日でした。子供達にとっても最高の一日を終えることができたと思います。

2015年9月21日月曜日

茅ヶ崎サマーキャンプ2日目

文責:木山侑香

本日は茅ヶ崎サマーキャンプ2日目はホットドック作りのための枝拾いから始まりました。昨晩、早く寝た子どもたちは、起床時刻より早く起きてしまうほど元気いっぱい!枝もすぐに集まり、初めてのホットドック作り開始!!美味しいパンにキャベツとソーセージを挟み込み、アルミホイルで包み牛乳パックに入れて、着火!!!
牛乳パックの火が消えたら完成です。すこーし焦げ付いてしまった部分もあったけれど、みんなで作ったホットドックは最高に美味しかったです。
新鮮なかぼちゃで作ってもらったパンプキンスープは、かぼちゃの優しい味がしました。野菜の甘みを知りました。
(一生懸命ホットドッグを作る様子)

朝食の次は少し遊具で遊び、バームクーヘン作りをしました。バームクーヘンは炭火でゆっくり焼きます。しかし、これが大変な作業でした。火は熱く、生地はなかなか火が通らないので時間がかかります。食べ物が出来上がるまでの過程がとても時間がかかることを子どもたちは学べたと思います。

焼きあがった後は、あっという間にお昼の時間!流し素麺をしました。上手に素麺をとれる子、逃がしてしまう子、みんな楽しくいただきました。
お腹いっぱい食べた後は、子どもたちが素麺を流す番!とっても楽しそうに素麺を流しました。

イベントが盛りだくさんの2日目は水風船大会がありました。水風船協議会の方の説明を聞き、A班、B班、C班、D班のグループに分かれていざ勝負!水風船が炸裂し、濡れながらも楽しく勝負しました。
茅ヶ崎の子どもたちとも勝負し、熱戦を繰り広げました。最終試合では福島代表チームの見事勝利!終わった後はみんなでゴミ拾いをしました。
(的に向かって思いっきり水風船を投げる様子)

水風船の後は、作ったバームクーヘンで休憩タイム!みんなで作ったバームクーヘンは疲れた体には格別に美味しかったです。

晩ご飯には作っていただいたカレーを2種類いただきました。両方とも美味しく完食しました。
(夜のカレーを美味しそうに食べる様子)


明日は、海遊びがあります。思いっきり遊べるのも今日までとなるのでたくさん遊んで欲しいです。

2015年9月20日日曜日

茅ヶ崎サマーキャンプ 1日目

文責:田代茜 木山侑香
9月20~23日まで茅ヶ崎にある柳島キャンプ場で福島県の子どもたちの保養キャンプがあり、その行程に同行しています。

本日20日は初日で、福島を8:30、郡山を9:30に、親子19名で出発しました。
シルバーウィーク初日ということもありましたが、大きな渋滞にはまることもなくスムーズに移動しました。

途中、佐野パーキングでそれぞれ持参した昼食をとり、芝生では子どもたちが元気に遊びまわりました。
(ランチタイム)

福島から茅ヶ崎までは遠く、キャンプが待ち遠しい子どもたちは、何度も「いつ着くの~?」と言い、楽しみにしている気持ちが伝わってきました。

その間、茅ヶ崎では、キャンプへの寄付金を集めるために祭りに参加しました。流しそうめん、バームクーヘン作り、フリーマーケットを出展しました。バームクーヘン作りでは、竹にアルミホイルを巻き、その上に生地をのせてくるくると回し、火が通ったら再びその上に生地をのせて回すといったことを1時間以上かけて、ようやく作ることができます。明日は、子どもたちが挑戦するのでどんなバームクーヘンができるか楽しみです。

16時過ぎに到着してから、キャンプ場のアスレチックで30分ほど遊んだ後、ヨガの先生によるヨガ教室を体験しました。みんな思い思いに身体を伸ばし、呼吸を整えました。が、途中から独自の動きを始めてしまうのが子どもたち。それぞれ楽しみながらヨガを体験することができて、貴重な経験となったはずです。
(ヨガ体験でリラックスする子どもたち)

その後、郡山市で塾を経営している志田さんが淡路島に移住して夫婦で玉ねぎ農家となりました。今回、福島の子どもたちの保養キャンプに支援したいということで、玉ねぎを送っていただきました。
明日からの料理に使用する予定です。食べるのが今から楽しみです。
(いただいた玉ねぎと共に)

夜ご飯には、作っていただいた豚丼とけんちん汁をいただきました。明日からの食事は自分たちで作ることになるので、作ってもらえるご飯は今晩でさいごです(笑)
お腹いっぱいに食べた後は、食器の後片付け。

22時の就寝まではシャワーを浴びたり、動き回ったり、おしゃべりしたり!夜まで全力で楽しむ子どもたちでした。

明日もイベントで盛りだくさんの1日!元気に楽しめるようサポートしたいと思います。

今回の茅ヶ崎の保養キャンプは、NPO法人monky padのまきさんから要請を受けて、アースウォーカーズは、募集と選考、福島から現地までの送迎を担当し、今回の茅ヶ崎サマーキャンプが企画されました。


2015年9月14日月曜日

被災地ボランティア13日目

文責:松崎喜代治
 今日ははじめに安積幼稚園に貝殻プロジェクトで拾った貝殻を届けに行きました。このあいだ貝殻を渡した笹谷文化幼稚園の子と同じように喜んでくれてよかったです。もらった貝殻を図鑑で調べている子供たちもいました。
(幼稚園に設置されたモニタリングポスト)

貝殻を渡した後副園長先生からお話を聞きました。放射能の影響で入園してから一度も外で運動会をしたことがない園児たちもいたということが分かりました。福島県の公共施設にはモニタリングポストがけどほかの県ににはなくて福島県独特の異常な光景だという話を聞きました。印象に残ったことは園児たちにどの位被ばくしたかを測るガラスバッチという線量計を渡すときに子供たちはメダルを貰ったと喜んでいたそうでこれも異常な光景だとおっしゃられていました。
(除染された木)

そのあとアルゴ幼稚舎保育園に行きました。そこで、宮崎県三股町出身で経営に携わっていられる山本さんに話を聞きました。震災当時、皆が車で避難しようとしたため郡山市などでは給油制限があったそうで山本さんは一番ガソリンが残っていたバスで実家のある宮崎まで避難されたそうです。宮崎ではテレビ局に呼びかけて救援物資をバスいっぱいに詰め込んで被災地に戻り配られた
そうです。
 
現在は給食の線量測定をされているそうです。時間がたつにつれて放射能のことを気にされる保護者の数は減っていると聞き放射能のことを気にし続けることは非常にストレスになるということを改めて実感しました。
その次にPEPkids郡山に行きました。子供たちの運動不足を解消するための施設で室内に砂場やランニングコースなどがあり子供たちが楽しく安全に楽しめるよう工夫されていました。




文責:宮崎大学1年 井上翔

  宮崎の海で木花保育園の子たちと集めた貝殻と砂を、安積幼稚園に持っていきました。貝殻を初めて触る子も多く、「大きい」や「きれい」などの声を聞くことができました。図鑑で貝殻を探している子もいて、子どもの好奇心はすごいと思いました。子どもたちの笑顔を見ることができたのは嬉しかったのですが、宮崎なら貝殻を触ることは普通だし、幼稚園にモニタリングポストという放射線量を測る機械もありません。福島には今も尚、放射能で苦しむ人がいることを再認識しました。
(貝殻で遊ぶ子どもたち)
  次に、アルゴ幼稚舎保育園で話を聞きました。園長先生は、震災が起きたとき自分が園の子たちを守らなきゃという思いのもと、出身地である宮崎県まで来て救援物資を持って福島に帰ったそうです。自身は、普段はしっかりしていないけどあの時は責任感や使命感があったとおっしゃっていました。。なんとかしなきゃ、誰かを守りたいと思う人はたくさんいます。しかし、実際に行動する人は本当にすごいし勇気ある人だと思います。私も福島を支援したいと思いますが、具体的に何をすれば良いのかは明確には分かりません。自分にできること、力になりたいという思いを行動で示したいです。 
 (アルゴ幼稚舎保育所での話

PEP Kids Koriyamaでは屋内に遊びの場が提供されており、たくさんの遊具や砂場で元気に遊ぶ子どもたちを見ることができました。放射能が気になって外遊びが制限されている子どもたちにとって、運動不足解消やストレス発散するためにとても良い場所だと思いました。お母さんたちを始めとする保護者の皆さんも子どもの遊ぶ姿をカメラにおさめたり、子どもの笑顔を見れてとても嬉しそうでした。  
 (PEP Kids Koriyama)

 本日は多くの子どもたちの笑顔を見ることができた一日でした。宮崎だったら当たり前のことが福島ではできない状況にあります。こういう笑顔もいつまでも見ていたいし、守っていきたいと思いました。


文責:宮崎学園短期大学 田代茜
 初めに、郡山にある安積幼稚園に貝がらを届けに行きました。子どもたちが貝がらを見ながら、図鑑でこれかな?といいながら集めたり、砂浜の砂を触って「さらさら~」と初めて触る砂に喜ぶ姿が印象的でした。私がこの幼稚園の服園長先生に聞いてもっとも印象的だったのは未だにガラスバッチという個人線量計を任意で持っている方がいる。子どもたちは、そのガラスバッチをメダルをもらったといい喜んでいる。また、幼稚園の中にモニタリングポストがあったり、子どもたちが放射線物質に触れないために木の幹を剥がしてあったりしていたことです。このような様子は、福島でしか見れない異様な光景だと思いました。
(安積幼稚園の子どもたちの集合写真)

次にペップキッズ郡山に行きました。ここは、原発事故の影響で、外遊びが制限されているため普段外で遊べるような砂場や滑り台などが室内にあります。これらはすべて無料で遊ぶことができます。このように無料で、たくさんの遊びができるという施設も宮崎や他県ではないものだと感じました。また、そこにはたくさんの方が来ていて、まだまだ福島県の子どもを持つ保護者からのニーズはあるんだなと思いました。
(遊具で遊ぶ子どもたち)

きょうは、宮崎では見られないような光景をたくさん見ることができました。この様子を見ていて室内でしかあまり遊ぶことができないということはあまりにも窮屈な生活をされているのだなと思いました。また、保護者の方にもリフレッシュしていただく仏ようがあるなとも感じました。

2015年9月13日日曜日

被災地ボランティア12日目

分析:宮崎学園短期大学 田代 茜
 今日は、初めに福島30年プロジェクトの阿部さんから話を聞きました。話の中で、最初は玄米が860ベクレル、キウイが673ベクレルなど当時の500ベクレルを超えたものも多くあったそうです。平成23年度はに、根っこから吸収された放射能と樹木についた放射能があり、樹木についた放射能を取り除くため、樹皮をはがしたり、付着を防ぐための工夫をしたりしたところ急激に値が下がっていったそうです。
 この話を聞いて、もっと早くに対応することで早く下げることができたのではないかと思いました。


 次に福島在中で子育て中の大内さんという方にお話を聞きました。この方は、震災後避難し1年半前に戻ってきたそうです。大内さんの話を聞いて思ったことは、思っていることを言えないストレス等、様々な状況があり、この状況がとてもきついものだなと思いました。思っていることを言うと、周りからまだ気にしているのかということを言われ、認められないのがすごく辛いなと思いました。また、放射能を気にしていないんではなく、もういいやと諦めてしまった人がおおいという話も聞き、とても残念に思いました。

 今回話を聞いて感じたことは、2つあります。1つ目は、様々な意見がある中でそのどれかをその人それが選択していく、このことをきちんと受け入れないといけないということです。前回、話を聞いた方で正解はいっぱいあるということをおっしゃっていました。そのことを私も受け入れていかなければいけないなと思いました。2つ目は、放射能のことは、なにもわかっておらずなにもわからない状況の中で、原発を再稼動させることは危険だなと思いました。鹿児島県の川内原発が再稼動しましたが、もしまた事故が起きた時の対応がまだできていないと思います。福島で起きた原発事故をしっかりうけとめるべきだと思いました。





文責:宮崎大学1年 井上翔

 今日はまず、NPO法人福島30年プロジェクトの阿部さんにお話を聞きました。「DAYS JAPAN」や「未来のふくしまこども基金」の協力で放射能を測定する機器を購入し、一般の方の食品を測るイベントを実施したそうです。このとき多くの人が食品を測定して欲しいと言ったそうです。放射能に対する不安をたくさんの方々が持っていたことが分かります。最初はセシウムの量が高かった食品が徐々に減っていく様子をグラフを見せながら説明してくださいました。また、福島市で線量が高い地域を避難区域にするよう交渉したが、受け入れられなかったということも話してくださいました。行政に対する不安から自分たちでやらなければならないと思ったそうです。
 (セシウムの経年変化)

 その後、大内さんと佐原さんの話を聞きました。子どもを守るために必死だったといいます。周囲のお母さんたちが放射能はもう大丈夫だという中で、放射能を心配していると言い出しにくかったそうです。子どもを守るが故にストレスを抱えて生活しなければならないという現状があります。ただでさえ震災が起こったことで不安を抱えているのに、そういった人間関係の中で毎日を歩んでいかなければならないので、相当なストレスだったと思います。その中で必死に生きているお母さんたちは本当にたくましいし、そういう人の力になりたいと思いました。私たちに必死に福島の現状や実態を訴えかけられる姿が印象的でした。
 (大内さんの話を聞くメンバー)



文責:松崎喜代治
 今日は、はじめにNPO法人福島30年プロジェクトの方に話を聞きました。震災当初線量計が入手できなくて、食品や場所の線量測定ができなかったと聞きました。
 
 食品の測定器とホールボディカウンターは高価なのでDAYsJAPANと未来の福島こども基金の支援で購入したそうです。11年の秋から本格的に測定しはじめたそうです。測定しはじめた当初は規制値を超えるものもあったそうです。一日10件ほどしか測定くらいしか測定できないため予約して1カ月になるくらい測定依頼が多かったそうです。最初の一年間は果樹類を中心に線量が高いものたくさんあり、果樹類は樹皮をはがしたり洗浄器で洗浄した結果線量は下がっていったそうです。
(福島30年プロジェクトの方との記念撮影)
 2011年度に政府が全量買い上げ等をし、次年度から対策が行われたものを出荷できていれば福島県産に対する消費者のイメージが違ったものになったという話を聞きました。
兵庫県産の大根を使用して福島県の色々な場所で切り干し大根にする切り干し大根プロジェクトというものをしたそうです。結果は干した場所によって線量が異なったそうです。放射性物質の影響はまだ残っているということが分かりました。

2015年9月11日金曜日

被災地ボランティア9日目

文責:宮崎学園短期大学 田代茜
 今日は、カリタスを去り岩手・宮城に向かいました。初めに陸前高田市の奇跡の一本松を見に行きました。そこには、たくさんの人が見に来ていました。崩れている家はありましたが、海の方は防波堤が作られ始めており、もう海は見えなくなっていました。
(陸前高田市の奇跡の一本松)

 次に南三陸町にいきました。途中で切れた線路は、経費削減のためバス専用道路となり、電車が走ることはないそうです。津波の影響が大きかったところをみると水の威力は、本当にすごくて怖いものだなと感じました。

 次に防災庁舎にいきました。当時は、絶対に壊れないとして作られた防災庁舎も骨組みだけ残り、全て流されてしまいました。この防災庁舎で生き残った人は、たったの一人でした。生き残った人はその後、なぜ周りを助けなかったんだと生きていてもこのような言葉を発されていたそうです。また、ここで流された人は4人まだ見つかっていないそうです。
(津波の被害が大きかった防災庁舎)

 防災庁舎の周辺は土地の底上げで山を削りたくさんの土を持ってきていました。福島県の沿岸部では、見ることのできない光景でたくさんの重機の音や工事現場がありました。

 最後に私の宿泊先となった石巻市で税理士をやっている庄司さんのお話を聞きました。震災当時にあった話を聞きました。庄司さんは、地震のあと自転車で「津波が来るから逃げろ」と街を駆け巡ったそうです。

庄司さんの奥さんは、30人ぐらいの方がいる中でどこに逃げるかの判断をしなければならない状況になり、山に向かう途中が渋滞している可能性があることから、一回外には逃げたけど「前にいたビルだ」と指をさし全員でビルの5階に逃げたそうです。その時の心境は、判断をし指をさした時には、私の判断でみんなの命が決まると指が震えていたそうです。
 津波の時は、家族などの絆は一回無くして逃げる。この姿勢がないと逃げられないということを聞きました。家族のことを心配した方一人の方は、水がまだ肩まである状態で家族がいたはずのビルにいくため避難所から出て行きました。ところがその方は低体温症で亡くなられたそうです。
この話を聞き、私は家族とは避難場所を決めておきお互いを信じながら自分自身で逃げていくことが大切だなと思いました。

 庄司さんかのお話で印象に残っていることは、人間は、自分に都合のいいことは受け入れ、悪いことは無視するということです。たとえば津波情報がながれていても、今までこんな津波は来たことがないからこないだろうというように悪いことは流し、いいように考えるということです。

災害時はこうなりやすいということを知ることが大切だと教わりました。






文責:宮崎大学1年 井上翔
 カリタスを出発した私たちは、まず商工会の松本さんにお話を聞きに行きました。原発は一度事故が起きると取り返しがつかないと強調されていました。補助金をもらいお金を十分に持っている人が自殺をしたという話を聞いたとき、いくらお金があっても大切な家族や住み慣れたふるさとは戻ってこない、そういった大切なものを一瞬にして奪ってしまう震災の恐ろしさを感じました。また、普通の生活ができるというありがたさをみんなが持つべきだとおっしゃっていました。私は、何気なく送っている生活を見直そうと思いました。「人間は欲望のままに進むと、本当に大切なものが見えなくなる、見えにくくなる」。多くの人が口にされる言葉をここでも聞くことができました。
 
 陸前高田市「奇跡の一本松」には、多くの観光客がおり滋賀県から来た人もいました。松の立派さが目を引いたのですが、松の向こう側の建物が津波の被害で損傷しているのが被害の大きさを物語っていました。
 (奇跡の一本松)
 
 PEACE BOATでは、東日本大震災が起きた際には津波の被害が大きかった宮城県石巻市で支援活動を行ったと聞きました。津波の被害によって生活の基盤である漁港や地域のコミュニティーが失われ、多くの方が将来を不安に思いました。少しでも石巻市の力になりたいと活動してきたけれど、最近は東京五輪に向け働き手が流れていって復興が遅れているそうです。東日本大震災が忘れられつつあることを悲しく思います。今も被災地で苦しんでいる人が多くいることを伝えていきたいです。
 
 税理士の庄司さんには避難所運営の話を聞きました。庄司さんは、震災の際には避難所のリーダーとして、運営をされました。「避難者が1500人、おにぎりが300個あったらどうする?」という質問を私たちにされました。子どもから食べるや5分の1ずつ食べるという意見が出ました。庄司さんは人数分までそろうまで配らないとおっしゃいました。少しの量を食べてもお腹は満たされないし、一部の人が食べたらもめ事が起きる可能性があるからです。防災マニュアルにも全員分がそろうまで配ってはいけないと書いてあるそうです。知識があった庄司さんだからこそ、避難所を上手に運営できたと思います。
 (庄司さんの事務所)
 
 今日は仮設住宅に泊まります。泊まらせていただく阿部さんにもたくさんお話を聞きたいです。






文責:松崎喜代治
 朝、三泊したカリタスを出発しました。最初に商工会の松本さんにお話を聞きに行きました。震災後、仕事や進学の関係で家族がバラバラになったという話や震災関連死が津波による被害者を上回ったという話を聞きました。他には電源交付金は電気料金から払われていた話や原発を町の境に作った理由など知らなかったことを知ることができてよかったです。
( 奇跡の一本松)
 
そのあと岩手県の一本松や南三陸町の防災庁舎を見て回りました。岩手県や宮城県を見て思ったことは福島県との復興のスピードの差です。半年前にも行った防災庁舎では周りの風景が大きく変化していることに驚きました。

(土を運ぶためのベルトコンベア)

 夜、税理士の庄司さんの所に行きました。その方は避難所のリーダーをされていた方で他の方とは違う貴重な話を聞くことができました。一番印象に残ったことは、支給された物質を徹底的に分配するということでした。避難所には当初1500人ほど避難されていて物資としておにぎりが300個届いたそうです。そのとき全員におにぎりを配ることができないので配布しなかったそうです。そのようなことははじめて聞いたので驚きました。
 今日いろいろな人から話を聞いて津波はちょっとした選択の違いで助かったり助からなかったりすることが分かりました。
 





文責:小玉直也
被災地ボランティアも終盤にさしかかりました。この日は福島県をあとにして、岩手、宮城の津波被災地へ足を伸ばしました。
前日までの津波被災地の南相馬市と浪江町では、津波で流された車や家が残されていました。

岩手県で最初に向かったのが、陸前高田市の奇跡の一本松。最寄りの駐車場には観光バスや自家用車の駐車場がいっぱいで、約10分ほど歩く道のりも観光客でいっぱいだった。

更地だった沿岸部に近隣の山を削った盛り土が10m以上の高さで広がっていました。

トラックやベルトコンベアーや重機の音が鳴り響き、復興への足音が着々と聞こえる感じは、その後に訪問した南三陸町の防災庁舎でも同様で、以前の道路はなくなり、地上10数メートルの所に道路が出ていて、防災庁舎を見下ろすように走っていきました。

各地に観光客でにぎわう宮城、岩手と異なり、放射能の影響で復興への道半ばの福島の違いに、あらためて愕然としました。

石巻では津波から逃れ生き延びた話、孫が目の前で流されていった話、避難所運営の困難さを乗り切るために過去の防災マニュアルが役立った話、などなど多くを学ぶ日となった。

学生たちが、下記ブログにレポートしているのでぜひごらんください。
http://earthwalkers.jp/blog.html

また、学生のボランティア行きの交通費をサポートする寄付も下記からよろしくお願いします。

http://earthwalkers.jp/support.html

被災地ボランティア8日目

文責:宮崎学園短期大学 田代茜
 今日は、午後から寺内仮設で松野さんという方にお話を聞きました。津波が来た時の写真を見ると2階建ての家の2倍の津波を見ました。中2と小6の子どもだけ避難をさせるという選択をして、行くときにお互いに手紙を渡したそうです。子どものメッセージの中には、もう会えないかもしれないと書いてあったり、気遣いがすごくあったそうです。どんな時でも前向きでいる子どもの強さは、とても印象に残りました。北海道に移動した時、「福島の住所を移したくて引っ越してきたんでしょ?」と言われた時もあったそうです。
 また、私が驚いたことは、第1原子力発電所を作った人に松野さんが話をすることがあり、その時言っていたのが「原子力発電所の近くの魚は絶対に食べない」でした。小高地区は、若い年代が2割になりました。震災の被害ではなく、原発での被害でこのようなことになってしまったことがとても残念でした。
(震災の時の出来事や思いを語る松野さん)

 地震に備える上で大切なことを聞きました。避難する際に避難する場所を2箇所きめておくこと、その際どっちかにいると信じて自分は逃げること、ハンコを一つ身につけること、その理由として、通帳がないため、ハンコが必要となると聞きました。

 次に野球場に行きました。この野球場は、避難していくときにグラウンドに逃げる人と観客席に逃げる人が居たそうです。そこへ津波がきました。グラウンドにいた人は、どんどん水が入っていく中で洗濯機のようにぐるぐると回り無くなっていき、観客席にいた人はその様子をみることしかできず1時間以上そこにいたということがあったようです。ここで野球の試合がスタートしたそうです。私は、このような大きな災害で54人が亡くなった場所で再び野球をしてもいいのかと疑問に思いました。
(野球場での慰霊碑に手を合わせる学生)

 次に奇跡の一本松に行きました。ここでは、震災前はたくさんの松林でした。しかし、津波があり他はだめになってしまいましたが、一本だけ残っていました。青空とともに残っている一本松は寂しさを感じました。
(松林から唯一残った一本松)

 最後に渡辺さんからお話を聞きました。その中で感動した話は新潟県から連絡があり、南相馬から新潟県に避難しました。新潟と言われてもどこに避難すればいいかわからず車で走っていて新潟に入ったら、「南相馬の皆さん、避難所まであと20キロと書かれた看板があり、それが5キロおきにあったそうです。どこに向かえばいいのかわからなく、不安のあった状態から見通しがついたときは、安心感がうまれただろうなと思いました。また、看板をつけていた新潟の方は本当にすごいなと思いました。
 私が一番残念だったことは、小高区の避難指示解除準備区域が解除された時保育園へ登園させますか?というアンケートをとったそうです。その結果登園させたいと答えた人は0人でした。この結果に私は非常にショックを受けました。
(地図を利用して渡辺さんの原発からの距離を説明する様子)

今日は、たくさんのお話を聞きました。津波で地元がなくなる悲しみは、私たちが想像する以上に悲しいし、今後が心配になるだろうとすごく考えさせられました。







文責:宮崎大学1年 井上翔
 今日も社協でボランティア活動を行いました。ハウス解体と家財出しをしたのですが、人数が多く役割分担をして効率よく作業を進めることができました。前日の反省を生かし、考えて積極的に行動できました。昨日同様、私たちの他にも被災地をサポートしたいという学生が参加していて、お互いのことを話すなかで良い刺激を受けることができました。社協での活動は2日間と短かったのですが、被災地を支援しようという人が4年半たった今でも多くいると分かり嬉しく思うと同時に、まだまだ支援の手は必要だと思いました。
             
 (社協での活動を終えたメンバー)
 
 その後、ずっと見たかった南相馬かしまの「奇跡の一本松」を見に行きました。東日本大震災の大津波に耐え今もたくましくそびえ立つ松は、震災の困難に負けず今も闘い続ける被災された人々を象徴しているようでした。青空も美しく、一本松の力強さが引き立っていました。
 
 寺内仮設の松野さんの話では、福島以外の人々も放射能に対する意識を高めるべきという主張が印象的でした。原発は多くの恩恵をもたらすことを引き換えに、人々の生活を奪うという大きなリスクを伴います。自分も含め、もっと危機感を持つべきだと思いました。松野さん自身もお子さんをお持ちで、子どもを守るために毎日必死だったそうです。そうやって苦難に立ち向かう姿は、やはりたくましく思いました。
 (お話をしてくださった松野さん)

 南相馬市議会議員の渡部さんにお話をうかがいました。南相馬で避難にあった人は新潟県が受け入れてくれたそうです。新潟県は2007年に新潟中越沖地震を経験しているのでスムーズに受け入れができたそうです。震災から学んだことが生きていてすごいと思いました。また、震災後に小学校に児童数が極端に減っている資料を見せてもらい、多くの子どもが被災地から離れていったり、廃校になる学校があることが分かり、震災によって生活が奪われていくのが悲しく思えました。国からの補助金が出ない地区には市が援助金を出すなど、きちんとしたサポートが市によってなされていると感じました。渡部さんは市の代表として実際に自衛隊の方と一緒になって捜索活動をし、たくさんの悲しい場面を目にされたそうです。多くの人の幸せを奪った東日本大震災を忘れてはいけないと思います。
 
 明日は岩手や宮城など津波の被害を受けた地域を見に行きます。多くのことを学び、考えていきたいと思います。







文責:松崎喜代治
 今日も社協のボランティアセンターに行きました。今回活動ではビニールハウスの解体と家財道具の運び出しをしました。家の敷地内には猪の足跡がありました。野生動物による被害が多いということが分かりました。依頼主の方に戻れるようになれば戻りますかと聞いたところ、周りの人は戻らないので一人では戻りたくないとおっしゃいました。一度ヒア跡がいなくなった街に人が再び戻るには時間がかかると思いました。
 社協のボランティアセンターでの活動が早めに終了したので寺内仮設に行きました。そこでまごころサロンの松野さんのお話を聞きました。震災当初、風評被害により福島県の方の結婚が破談になったり、職場をクビになった人がいるという話、避難した先で「住所を変えるために来たのでしょ、賢い選択ですね。」という話を聞き当時の風評被害の大きさを知ることができました。印象に残ったことは家族で決める避難場所は二か所決めること、ということと合併しない村や町にはそれだけの財源を確保し続けることができる街で発電所などがある地域が多いということを知ることができました。
 

南相馬の復興商店街や鹿島の一本松を見て、南相馬市の議員の渡部さんに話を聞きました。南相馬市の方が被災されたとき新潟の人から電話がかかって来て避難民を受け入れる準備があるから向かわせていいよといわれたそうです。向かう途中にも「避難所まであと○キロ、頑張れ。」とあったそうです。新潟県は中越沖地震の経験をきちんと活かしていてすごいこと思いました。また震災後、線量計も無く線量も分からない状態で行方不明者の安否確認に自衛隊の方と一緒に行かれてとても勇気ある行動だと思いました。                    








文責:宮崎公立大学1年 日高 綾
 今日の朝はラジオ体操をしに行った後、初めてミサに行きました。そのお祈りの中に、東日本大震災で亡くなった方達の為へのものがありました。こううして毎朝お祈りしている人がいると知ることが出来、改めて震災のことを風化させては行けないなと感じました。そして昨日と同じく社協へ行き、今日はハウス解体と家具の移動をしました。今日も参加人数が多くて、午前中に作業が終わってしまいました。
(ラジオ体操後)

 その後は寺内仮設の松野さんにお話を伺いに行きました。松野さんは実際に津波の恐怖を経験している方で、私は初めてその話しを聞くことが出来てとても良い経験になりました。松野さんが住んでいた場所は津波が来ないと言われていた地域で、他にも全く被害のないところだったそうです。この震災が起きなければ…と言っていました。そして放射線量も多かったので、子どもたちだけ遠方に避難させたのですが、もう子どもと会うことは出来ないかもしれないと思い、子どもとそのような内容の手紙を交換したそうです。
(寺内仮設で撮った集合写真)

 その次に南相馬市の奇跡の1本松を見に行きました。何も無いところに1本だけ立っていて、震災前の松林の写真と見比べてもそこに林があったなんて想像できないくらいでした。私の通っていた中学校の裏にも松林があったのですが、津波の威力はものすごいものだなと改めて実感しました。そして、もしもそこがこんな光景になったらどんな気持ちがするだろうと思いました。
(奇跡の1本松)

 次に、仮設住宅に住んでおられる南相馬市市議会議員である渡部寛一さんにお話を伺いました。渡部さんは震災前や震災後について資料をくれながらとても詳しく話して下さいました。その中で驚いたのは、小高の保育園に通っていた子どもを持っているお母さんたちに震災後に行ったアンケートで小高に戻りたいという人が0人だったことです。また、戻ろうと思っても問題が山積みで戻ることが出来ないそうです。

2015年9月10日木曜日

被災地ボランティア7日目

文責:宮崎学園短期大学 田代茜
 今日は、朝6時半からラジオ体操をしました。ここは、原町仮設住宅の方ととなりの公園でラジオ体操を毎朝行っています。前回原町仮設の方の家を訪問し、話を聞く機会がありました。その方にもお会いすることができ、再び会うことができました。仮設住宅の方は、「山菜をまた取りたい」「家に戻りたい」という言葉を発していました。することがないといい、ペットボトルで風車などを作っています。松ぼっくりは、放射能が高いかもしれないから子どもたちと遊ぶことができないという言葉が印象的でした。
(UMKで心に残るコメントをしていた志賀さんとラジオ体操で再開)

 午前中は、民商の松本さんに会いに行きました。この方も前回出会った方で、就職祝いもいただきました。アースウォーカーズで知り合った人とのご縁は、ずっとつないでいたいと強く思いました。

(牛を守る吉澤さんの話)

 午後からは、希望の牧場に行きました。ここは、国や行政が牛は全て殺処分をしろと言われていましたが牛の命を全うさせたいと出荷することはできませんが今も大切に育てています。吉澤さんの話で「猫や犬などのペットは全て保護されたにも関わらず、家畜は全て殺処分」という言葉に私は、家畜も大切に育ててきている動物の一つなのに、人間だけの理由で殺すということは本当にひどいことだなと思いました。吉澤さんは、全国をまわり今でも福島のことを訴え続けています。私たちは、もっと福島に寄り添い考えていかなければならないと思いました。また、批判されることがあっても諦めず訴え続ける勇気は本当にすごいなと思いました。

(前回家財の運び出しを行った菊地さんとの再開)


 吉澤さんのお話を聞いた後、前回の松本ボラセンの時に家財の運び出しを行ったお宅を訪問しました。仮設に普段は住んでいますが、眠れなくなり家に戻る選択をしたとおっしゃっていました。自分の家で生活するのではなく、仮設で生活しなければならないつらさ・悲しさはすごく大きいと思いました。前回より元気もなく、周りの方が寄り添っていくことや一人でいることが多いので話をしに行くことが大切だなと感じました。

(沿岸部に残された津波の後)

 次に近くにある、原町区の沿岸部を見に行きました。ここは、原発から20キロ圏内の場所です。前回、ここも訪れましたが重機が入っていて、家がもう少なくなってきました。土台だけ残された橋や崩れた家など未だに残っていました。ここがもし津波の被害だけだったらどうなっていたのだろうとすごく考えさせられました。






文責:宮崎大学1年 井上翔
 今日は、社協で活動しました。私たちの班は屋内の家具出しや清掃を行いました。作業をしている中で、40年前の新聞や写真、食器などが出てきてすごく思い出のある家を手放さなくてはならなくなった家主さんの気持ちを思うと悲しくなりました。私たちの他にも、様々な県から大学生が来ていて福島を応援する人がたくさんいると分かり、彼らと協力しながら支援を続けていきたいと思いました。

 
 今日はボランティアが多くいたので作業は午前中で終わり、車で移動しながら写真を撮ったり、線量を測ったりしました。多くの場所で除染が進んでおり、復興の歩みが少しずつ進んでいると感じました。
 (震災から立ち上がる住民の気持ち)
 
 その後、希望の牧場で吉沢さんにお話を聞きました。国から放射線を浴びた牛を殺処分するように言われたとき、周りの牧場が国の方針に従っていく一方で、牛飼いとして牛を守るという道を選んだそうです。話を聞いて、日本は2020年の東京五輪を復興五輪と位置づけ、震災から立ち上がった日本を世界にアピールしようと進んでいるけれど、震災の問題は解決していないので、もっと慎重に考え福島に関心を持つべきだと思いました。また、ドイツのように脱原発を目指し安全な電力供給を行うべきだとおっしゃりました。原発は多くの利益をもたらしますが、100パーセント安全ということはできません。人の命と利益、国はどっちを守ることが大切なのかしっかり考えるべきではないでしょうか。
  
 (吉沢さんの話を聞くメンバー)

 
 国に対する不信感を感じ自分の選んだ道を進もうとする人がいたり、あきらめて希望をなくしてしまう人もいます。全ての人が幸せになって欲しいと思うけれど、現実は多くの人が苦しんでいます。震災が与えた影響の大きさを感じた1日でした。明日も社協で活動するので精一杯活動していきたいです。
 
 






文責:松崎喜代治
 今日は社協のボランティアセンターに行きました。家財の運び出しをしました。家財を運んでいるときに出てきた40年前の新聞などをみて長い間くらされていた家だと分かり、その家に住めないということを考えると悲しくなりました。

 希望の牧場で吉沢さんの話を聞きました。希望の牧場では被ばくした売り物にならない牛を飼育し続けています。原発がある街では、避難用のバスが来ていたのに対し、その周辺地域では原発の情報さえ知らされてなかったそうです。話を聞いていて国や東電に対する怒りが伝わってきました。

 南相馬原町区小浜の前回見た津波で壊れた橋の場所に行きました。その近くに津波で流されずに残った家が残っていました。前回行ったときに比べて瓦礫などが片付いていました。少しずつ復興に向かっていると実感しました。

 前回家財道具の運び出しのボランティアをした菊池さんに会いに行きました。菊池さんは前回お会いした時よりも元気がなく、仮設住宅では寝れないとのことで家に戻ってこられていました。仮設住宅に入っている方は今でも苦しんでいられる方がいるということを改めて実感しました。







文責:宮崎公立大学1年 日高 綾
 今日の朝はカリタスの人たちと公園にラジオ体操をしにいきました。そして、その公園の横にある仮設住宅の志賀さんのお宅に行き、お話を伺いました。志賀さんは今年の3月もアースウォーカーズが行っていたので、その時撮影されていた取材の映像をお見せしました。志賀さんはゴミ拾いをして拾ってきたものや松ぼっくりを使って飾り物を作るのが上手な方で、庭がカラフルで緑もいっぱいあり、とても綺麗でした。そして、私たちにもペットボトルで作った風車と松ぼっくりの飾り物をくださいました。ですが、松ぼっくりが放射線量を測定してからでないと使えないのでとても小さく、少量しか取れないそうです。なので宮崎の大きな松ぼっくりを届けて、子どもたちと一緒に飾り付けをしたりする活動が出来ると、いいなと感じました。

 そして朝ご飯を食べて、社協に届いている案件の中から、屋内の家具だしの活動をしました。人数が多かったので午前中で終わりました。そこで香川県出身の同い年の友達ができました。その子は自費で福島のボランティアに来ていて、意識が高いなと感じました。全国には震災のことを考えていて実際に遠方から足を運んで支援に来る人がいることを知って嬉しかったです。私もこれからも出来る限り支援を続けていきたいと感じました。
(ボランティアに行く前)

 その後、希望の牧場の吉沢さんにお話を伺いました。放射線の影響で、政府からは殺処分をするように言われたのですが、吉沢さんは牛の命を奪うことはせずに育てています。その牛たちの餌代は募金でまかなっています。私の出身である宮崎県も数年前口蹄疫が広がり、相当な数の牛が殺処分されたので、少し状況は違うけれど似ているなと感じました。福島に来てから色々な意見を持った人にお話しを聞いたのですが、吉沢さんは他の意見も尊重しつつ自分の正しいと思ったことを信じて、それをしっかり行動に移しているところが凄いと思いました。
(希望の牧場)