2015年6月29日月曜日

宮崎大学保養勉強会

文責:宮崎大学2年 田渕亮丞

 6月25日にNPO法人アースウォーカーズの代表をしている小玉さんに「ほようのみちしるべ」という冊子を使い、勉強会を行いました。

<小玉さんの話しを聞く学生>

 宮崎大学アースウォーカーズでは、8月に福島の小学生を対象に、サマーキャンプを企画しています。そこで、保養について詳しく知る為に小玉さんのお話を聞きました。

 小玉さんの話しを聞いて、参加した学生たちは保養の大切さや、アースウォーカーズの活動の大切さ、福島への支援の継続の重要性を多いに感じとっていました。

 「ほようのみちしるべ」を受け取り、保養について聞いているうちに、私たちは福島の子どもたちを、サマーキャンプで「どうしても外遊びを思いっきりさせてあげたい!」という気持ちを一旦抑えて、もう一度冷静になって、このプログラムは本当に現実的か?子どもたちの健康面、また学生たちの健康面も考慮されているか?という事を見直していく必用があると感じました。

 最後には子どもたちがまた笑顔で、また宮崎に来たいと言ってもらえるようなキャンプにしていきたいです。

 その為には、前回のキャンプでの反省点や成功点をもう一度見つめなおし、本日頂いた冊子を熟読し、十分すぎる程の用意を心がけないといけないと思いました。子どもたちの命を預かることを自覚して、今回も無事成功させたいです。

<保養の冊子を受け取る>

「ほようのみちしるべ」は、311受入全国協議会が、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの助成を利用して作成されました。

この冊子はうけいれ全国のウェブサイトからダウンロードする事が出来ます。

2015年6月21日日曜日

NPO法人アースウォーカーズ通常総会を開催 

NPO法人アースウォーカーズ通常総会を開催 文責:コガケイ。

6月21日、宮崎市民プラザにて特定非営利活動法人アースウォーカーズ総会を開催しました。

総会では前年度の決算報告や事業報告、今年度の事業計画や予算案を採択され、今年度の新たな役員が選ばれました。
提案された原案から議論の末、かなり良い内容になって修正した上で、すべての議決が全会一致で採択されました。
その後の交流会まで含めて、16:00-22:00までと6時間に渡る議論が出来て、内容の濃い会議となりました。


弁護士さんや大学教授などから出される声に学生も議論を深め、内容の充実した1日となりました。
オブザーバーも含めると、宮崎大学の1年生などもいて、ますます活動の輪が広がっていることを実感しました。

東日本大震災から4年が経ち、被災地の現状や福島の課題が忘れられつつあります。
そんな中でも、昨年度はほとんど寄付や会費で1000万円を超える予算となりました。
そして、確実に支援の規模が拡大していることを実感しました。
 また、有給スタッフがいない中、全員ボランティアでの活動で限界はあるものの、多岐に活動内容が充実してきました。


 2015年度以降も、未就学児を対象とした「福島の子どもたち宮崎に来んねキャンプ」や、未就学児と小学生対象の「米沢日帰りリフレッシュプロジェクト」、中学生のオーストラリア、高校生のドイツ、学生の被災地ボランティア派遣、野菜プロジェクト、ドングリ貝殻プロジェクトなどなど・・・継続して頑張りますので、今後ともご支援よろしくお願いします。
また、今年は宮崎県庁の東日本復興支援事業の委託を受けれなかったので、財源が苦しい事情となります。

福島の子どもたちの支援が継続できるよう、ぜひ、アースウォーカーズのワンコインマンスリーサポーターに登録よろしくお願いします
1口500円〜10口5,000円を選択していただき、毎月クレジットカードや郵便局の口座から自動引き落としのシステムになっています。
希望者は、ぜひご連絡ください。


 支援を継続し、活動の輪をますます広げて行くため、これからもご支援、ご協力頂ければ幸いです。
 なお、役員選出では昨年度の役員から3人が正会員の退会届けが提出され、新たに3人の理事が選出され下記理事11人、監事1人の体制となりました。今年度の新役員は下記の通りです。
理事会構成
代表理事  小玉直也     フリーカメラマン
副代表理事 木下 統     宮崎大学農学部准教授
事務局長  辻盛秀美     会社員 
理事    山田秀一     弁護士
理事    成見暁子     弁護士
理事    福田久美子    天空カフェジールオーナー
理事    松田達郎     宮崎大学工学部教授
理事    サシャクリンガー サムエル幼稚園 園長
理事    池辺宜子     ひむか村の宝箱代表
理事    田代 茜     宮崎学園短期大学 学生
理事    古賀渓太     宮崎大学教育文化学部 学生
監事    河崎三男     税理士



2015年6月16日火曜日

福島ボランティア11日目

こんにちは小酒井です。6月7日は、カリタス原町ベースを出て福島市に戻り、さらに二本松市に移動し保養説明会を見学させてもらいました。

参加した保養団体です。会場いっぱいにブースが設置されていて全国各から集まっていて、保養の内容も様々でした。そして、保養期間も様々でした。



二本松市の保養説明会に参加した親子も福島県の各地から駆けつけていて、正直こんなに人でごった返しているとは思いませんでした。

保養説明会が終わってからの振り返りの時間での発言で印象に残ったのは、ある保養団体では、保養前と保養後で尿検査をする取り組みがされました。それでわかった事は、あきあらかに保養後の尿の方がセシウムが減っている事が分かったそうです。保養の効果の可視化が出来ているのではないかという事です。



もう一つは、保養の場所が全国各地にあり、遠いところだと長期の保養になっています。ところが、長期になると夏休み中の期間などいく期間が限られてしまうという事もあります。しかし、はじめて保養を使う人はいきなり長期だとなにかと心配に思うこともあったり、長期の時間が取れない人にとったら行きたくても行けない方もいるだろうということです。



なので、もっと近場や福島県内で行きやすい保養がもっとあってもいいんじゃないかという事も言われました。
遠いくて長期のものから近場で短期まで様々な希望を汲み取ってこれからも保養を充実させいってほしいと思いました。

最後に今日に会場にいっぱい集まった方は保養を知っている人であって、まだ福島県内に住んでいて「保養」を知らない人たちに関してもっと認知されていってほしいと感じました。

以上。



2015年6月15日月曜日

南相馬ボランティア 10日目

こんにちは小酒井です。6月6日は外作業ではなく関西から来た団体さんと南相馬からいわき市までの視察に同行してきました。

6月2日にも浪江町の視察に行ったんですが、今回はまた違う場所を見えれるという事で、急遽外作業を変更して行かせてもらいました。


小高地区の仮置き場にはものすごい量がありました。



希望の牧場に寄りました。この地区は酪農されている方が多かったんですが、原発事故により人が住めなくなり、当時の政府から動物たちを殺処分するように命令された。しかし、それではあんまりだというで希望の牧場を立ち上げて今も牛を飼い続けている。放射能の影響を受け続けて生きているのは、この希望の牧場だけだそうです。中には毛が抜けたり斑点が出たりする牛もいるそうです。


小高の町は、まだ震災からの復興があまり進んでいなかったです。ここは津波の被害がなかったにもかかわらず放射能があることで町に人が住めなくなっているんです。町には入れるんですが、泊まってはダメなんです。先日の福島民報には小高の帰宅困難の家の中で腐乱の死体が見つかったそうです。死因はわかりませんが、このようなニュースもなかなか全国には上ってきません。


小高駅前です。取り残された自転車がありました。


薬師堂観音に観光にも行ってきました。福島は観光もありました。


大悲山の石仏は薬師堂石仏で、これは東北地方で最大、最古のものです。


震災遺構として残された津波に流されたパトカーです。震災当時、津波が来るその時まで市民に対して警告をしていた為に津波にのまれてしまいました。もちろん乗車していた警察官の2人は亡くなってしまいました。


富岡駅はもうすでに取り壊されていました。奥の白い建物は、焼却炉にがれきを持って行く前にゴミの分別したり、あるいわ粉砕して小さくしているものです。富岡町は最近になってようやく一般の除染活動が開始され、いきなり黒いトン袋がどんどん現れたと思ったら、あれよあれよという感じで町中が黒いトン袋だらけになったそうです。あと、この富岡には低レベル線量の汚染物質の永久保存場所となっています。



津波の凄さがわかる写真です。津波は22メートルもあったそうで、写真に写るローソク岩がなくなり、家の1階あたりまで波が襲ってきたそうです。


富岡の夜ノ森地区は桜並木が名所になっていましたが、事故後閑散としていました。左の写真で、信号機の奥はバリケードがつくられ、ガードマンが立っていました。帰宅困難地区で許可がないと入れません。右の写真はトラックより奥に見えるガードレールは仮設のバリケードとして、その奥からは帰宅困難地域です。ですが、手前の家からは好きな時に日中は帰宅できるという地点です。放射線量はそんなに変わらないのに、原発からの距離と道によって線引きされた結果です。保障の形も違いがあります。この町は現在、除染作業員とトラックの行き交う音が響くだけになってしまいました。そして、線量は事故後より減ったんですが、まだ高いところです。今日で0,9マイクロシーベルトでした。町の入り口に支所があり防護服をもらえるんですが、今となっては着る人などほとんどいないそうです。慣れが出てきてみんな大丈夫と思っているのか、放射能は目に見えるものではないので人は慣れてしまう怖さがあると感じました。


これが今のJ-VILLAGEです。ここは東電が資金を出しスポーツ選手育成や支援をする施設として建てられました。今は、サッカーコートを駐車場にしたり福島第一原子力発電所の作業員の仮設住宅になっていました。



浜風商店街はあまり知られていませんが、ここも津波被害が大きかった地域です。



沿岸部は津波の被害からの復興が少しずつ進んできていて復興住宅も徐々に建ち始めていました。しかし、一面更地になっているのを見ると、津波の恐ろしさが実感できます。


帰りの夕日は綺麗で感慨深い景色でした。こんなにも綺麗な景色なのに見えない恐怖もあり、また、見えないが為に慣れてしまう。原発事故後の保障も道を隔てただけで変わる。家に帰れる帰れないがあり、元の家に戻るか未だに見通しが立てられない。原発がもたらす負の部分はとてつもない影響を与えます。どこがクリーンエネルギーなのか。これ以上原発推進政策はやめるべきと強く思った帰り道でした。

以上。

南相馬被災地ボランティア 9日目


こんにちは小酒井です。6月5日から「カリタスジャパン 原町ベース」で生活しながら、南相馬の社協にボランティア登録して活動していきます。

道路脇に写っているピンクの印は除染予定の印です。小高地区はこのピンクの印がそこらじゅうに広がっています。


今回のボランティアの活動は依頼人の配慮によって写真は撮らないでくださいと、事前に説明されたので、活動中の写真がないことを始めにお断りしておきます。


今日は午前、午後で2件の依頼をこなしました。午前中はフレキシブルコンテナバッグに家から出るあらゆる物を入れてがれきとして処分していきました。

庭植えられた木や大きな家具などは、チェーンソーで玉切りにしてフレコンバッグに入れていきました。このフレコンバッグは内容量が約1トンなので、通称「トン袋」とよばれています。

ボランティア20人ほどで手分けしてみるみるうちにトン袋が並んでいきました。
このお宅に来た時にはすでに10袋ほどのトン袋が並んでいましたが、これは家の主人が仕事をやりながら空いた時間で作業していったと言います。しかし、それも、もう自分だけでやるのは疲れたという事で今回ボランティアに依頼したとのことでした。

午後は家から畑に続く道と、雑草のぼうぼうになっている畑の草刈りをして、時間があまったので取り剥がされた雨どいを小さく畳んでひとかたまりにする事をしていました。
ここのお宅の主人の方は足が悪く一人ではとても無理な様子でした。

ボランティアで一緒に活動していた人から後で聞くと、このご主人からこの家の片付けでどのくらいお金を貰っているんだと聞かれたそうです。がれき処理や家の片付けでボランティアがあると知らなかったようです。

もし、今回の依頼主のようにボランティア活動を知らない人がいて困っているなら早く情報が行き渡るようになればいいのにと思いました。
そして、震災から4年たった今もボランティア活動が必要とされているし、これから夏を迎えたら肉体仕事が大変になるから今も現地でこうやって活動を続けている方の凄さも感じました。

以上。

2015年6月14日日曜日

8日目 被災地ボランティア 


こんにちは小酒井です。6月4日は特に活動するわけではなく、ビラ作りと明日から南相馬に入りボランティアをするので移動日になりました。


ほよ〜ん相談会といって、全国で保養プロジェクトをやっている団体が集まり、福島県内に住む親子の受け入れをする合同説明会があって、それようにアースウォーカーズのビラのデータ作りをしました。


完成したビラがこれです。

そして、このビラのデータを作ってすぐ、南相馬に移動しました。


明日からこの「カリタスジャパン 原町ベース」にお世話になります。明日は外作業を行う予定です。朝から3日朝のラジオ体操から始まるので今日は早く寝て明日に備えます。

以上。



2015年6月13日土曜日

7日目 被災地ボランティア 

こんにちは小酒井です。6月3日NPO法人「シャローム」にお邪魔してホットスポットファインダーの詳しい説明を受けてきました。

これがホットスポットファインダーです。空間線量を地面から10・50・100㎝の高さで測っていくというものです。カメラやGPS搭載しており一秒ごとに計測していくことが出来ます。



これが10センチの線量です。


これが1メートルです。少し数値が変わっているのが分かりますか?

同じ場所でも測る高さによって出る値が違う事が分かります。子どもは相対的に低い世界で活動しているので放射能による影響を受けやすくなります。
このホットスポットファインダーで学校の敷地や通学路、公園を細かく測りそのデータを住民が共有出来るようになれば、気をつけるポイントが一目でわかる。そうすれば不安で外に出れない方や、普段放射能の事を気にしていない方も放射能の可視化が可能になり、それぞれ人の判断材料になる。

これは本当に画期的にな事で、これまで見えない放射能に悩まされた人が安心材料になるし、気にしなかった人はもう少し考えてもらえるようになる事で、二極化している福島の人々の距離を近づける事が出来る。そうなる事が今の福島には必要であると学びました。
この後は福島市役所に行ってきました。


市役所近くの線量は0,707マイクロシーベルトでした。福島市役所にエントランスには除染に関するブースが設置せれています。


放射能に関する資料がこんなにも発行されています。そごいですね。

資料の中には「安全」という言葉がありました。たしかに安全なのかもしれないが、大丈夫と判断するのは個人差が生じます。安全だから何も気をつけないのも怖いし、大丈夫なところはどこにもないと思いながら生活するのも大変です。NPO法人「シャローム」では地域住民とホットスポットファインダーを使った取り組みを目指しているそうです。
上から言われた情報を鵜呑みにせず、自ら調べて判断できるようになっていく事で社会が前に進んでいけるようになるんだと感じました。
それと、やはり、住民と行政や企業も協力し合いながら前に進んでいくことも重要だとも感じました。

この日の夕飯は餃子を食べにいきました。ここでもいい体験させてもらいました!その様子は小玉さんのフェイスブックの記事でアップされているので気になる方はそちらをご覧ください。


以上。


6日目 浪江視察 

こんにちは、小酒井です。6月2日は福島市から伊達市、相馬市、南相馬市、浪江町というルートを通って視察してきました。

最初行った伊達市は震災当時、特定避難勧奨地点とされており、一律的な避難指示や産業活動の規制は行わず、放射能の影響を受けやすい妊婦や子どものいる家庭に対して特に避難を促す対応がとられた地域です。なので伊達市立小国小学校は登校する児童全員をスクールバスで登校させていました。これは今も続けているそうです。


伊達市立小国小学校です。


小国小学校の向かいにある草原の線量は2,11マイクロシーベルトでした。


南相馬市を通る国道6合線の風景。だだっ広い平野が広がっている。


震災後営業が出来なくなって建物だけ取り残されている。


小高工業高校は警戒区域にあり今は仮設校舎で生徒は日々勉強している。ただ、「南相馬市避難指示区
域帰還促進計画」に基づきH29年には元の場所に移るそうです。


今回の視察の案内をしてくれた三浦さんの家も津波と地震の被害で住めなくなり、今はその土地を利用してソーラーパネルを設置していました。


ここで発電したものを東北電力に売っています。環境省はこの近くに放射能がれきの仮置き場を作っている中で、農水省はこの地で農業を再開させると言っているそうです。


三浦さんの家からそんなに離れていないところで、これほどの敷地をがれきの仮置き場にしています。


地中に放射能が漏れる可能性がないわけではない。


ここは線量の低い土地でしたが、そこを放射能がれきの仮置き場にしているのが実態でした。そして、来年の4月には帰宅が始まります。帰宅希望者は町民のなんと13%しかいないと言います。

この後、一時立ち寄りに許可証がいる場所にも入っていきました。


津波の被害がなかったのですが、地震で1階が潰れています、建物の二階に掛けてあった看板がみえます。



ここからは、津波被害があった地域を周っていきます。



かなりがれき処理が進み泥も掻き出されましたが、それでもまだ車やタイヤなどが残されたままの所もちらほら点在していました。

先に見えるのが焼却炉。先週開業したばかりで、中間貯蔵施設に送る前に燃やせるものをここで燃やしています。このような焼却炉が浪江町、南相馬、富岡町の3箇所に設置されています。


津波で一階が流されたお家です。津波にも耐えて残った家は、その後の原発事故の影響で住めなくなったとして、東電の賠償対象になりました。しかし、津波によって全部流された家は東電の賠償対象にはならないという保障の対象にも差が生まれています。


そして、遠くに見える山の先にある白い屋根が福島第一原子力発電所です。


上の写真の拡大です。山の先に白い建物が福島原発。

請戸小学校にも行ってきました。この小学校は地震発生後から近くの山に生徒全員を避難したので一人として津波の被害を受けずに済んだ小学校です。


請戸小学校です。時計の時間は津波発生時間で止まっています。


一階は完全に津波にのみ込まれました。


体育館です、卒業式の横断幕がそのまま残っています。ここの時計も津波発生時間で止まったまま。


ここは二階の教室なのですが、水は黒板の20〜30センチ下まできていました。壁に少し泥が見えるのが津波の来た水位です。


二階の教室から見える福島第一原子力発電所。白の屋根です。

浪江町に来ましたが人が全然いませんでした。



浪江駅で線量を測ったら6,91マイクロシーベルトありました。


福島民報の中に2011.3.12の新聞が置かれたままになっていました。


地震の大きさがわかります。地盤も陥没している箇所もありました。

震災から4年が経って復興が進んでいなわけではありませんでしたが、人が住み生活をし、農業や漁業で暮らしていくことはこの先訪れるのか。何か少し違和感が残りました。国は無理やり人を戻して、それを「復興」という言葉で片付けてしまうのではないか。そんな恐ろしい想像をしてしまいます。

以上。