2022年3月11日金曜日

福島フィールドワーク2022 2日目(3月11日)

 3月11日 文責 梅田優哉

この日は、福島市の高校を卒業し東京の大学に行っているみゆさんと、埼玉の川野さんと合流して、福島市から南相馬市へ移動した。コロナの影響もあり対面ではなく、電話で南相馬市の松野さんに震災当時のお話を伺った。

松野さんの家族構成は、松尾さんと旦那さん、子ども二人、そして父方の父母の6人で暮らしていた。松野さんは自宅で一人で過ごしていたときに地震が発生した。揺れがおさまってからテレビをつけた。テレビでは3メートルの津波がくる恐れがあると報じていたが、実際には50cmほどだろうと考えていたため、散らかった部屋を片付けていたそうだ。


子どもを学校に迎えに行くために車で学校で向かった。それから毛布を取りに一度自宅に戻り、再び学校に向かっていた途中でバックミラーに波が写ったのが見えた。それから急いで学校に戻ったという。その間、助手席の子どもはずっと後ろの波を見て娘は電信柱の2倍くらいあったと話していたすだ。

松野さんの旦那さんは漁業を営なんでいたそうで、地震が起きてから津波に備えるために船を沖に出す準備をしていた。沖に出てからは船よりも大きな波が向かってきていたそうだ。旦那さんは海の知識を持って波を乗り越え、イカリをおろし、海の上からただ流されていく町を見ているしかなかったという。

祖父母も地震が起こってから高台に避難し無事に助かったという。しかし、その高台からは流される屋根や車が見えたという。

こうして6人が無事に助かったのだが、避難所を訪れる話になった時に、周りは助からなかった人がいるのにみんな助かった私たちがここに入って良いのかと考えたそうだ。結局、避難所を実際に訪れることはせず、被害のなかった身内の家に避難させてもらったそう。

松野さんはこの時、助からなかった人とそうでなかった人の温度差がはっきりと分かれ、助かってもそれを喜べる雰囲気ではとてもなかったという。

話を伺っていると車は請戸小学校に到着した。津波の被害を受けた地域の小学校であり、当時の教員や地元の人たちの判断で避難を促し、犠牲者が出なかったという学校である。

 建物の損傷は津波の恐ろしさを物語っていた。教室の壁紙はほとんど残っておらず、天井から鉄筋や配線がぶら下がっていた。


 要所要所に立っていた案内板にはこの部屋が保健室や教室であることを教えていたが、そのことを知らされていなければ何の部屋なのか分からないほどだった。


津波の高さが記録されていたが、人の身長の二倍以上あることをみて驚いた。

その後、取り壊されないまま残っている建物を拝見した。一階部分には津波が通過したことで風穴が空いたように壁は破られ、フレームは歪んでいて立っているのも不思議な状態だった。家の庭と思わしき場所にはトタンの屋根で作られた簡単な雨除けの下に、まだ新しい花が生けられていた。

午後は伝承館を訪れた。震災が起きた日ということでキャンドルを灯すイベントを準備していた。屋上からは津波が来た海や更地になった土地、奥には福島原子力発電所が見えた。私たちはここで14時46分、震災が起きた時刻を迎え黙祷を捧げた。

伝承館を離れた後、双葉町から大熊町へと車を走らせた。そこではいまも立ち入り禁止になっている区域が多く残され国道6号線からほとんどの道に入れないための柵がつくられ、いまも帰還困難となっている住民の思いを想像すると11年経った福島での被災地を風化させては行けないと思った。

そのあと福島駅前のキャンドルナイトを訪れた。ここでは伝承館同様にキャンドルづくりができ、それを夜に灯し3月11日を過ごすというものだった。私はこの空間で今日みた景色を思い出しながら過ごした。


この日は実際に被災した土地を見てきた。津波の爪痕が今も多く残っていることを受けて被害の大きさを実感した。そして、今後このような災害で犠牲者が増えてほしくないとも思った。

明日は震災後に保養に行った方のお話を伺う予定だ。

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