2014年5月3日土曜日

福島ボランティア2日目


文責:宮崎大:あすか
今日は南相馬市ボランティア活動センターでの活動でした。
今日の活動内容は、一時帰宅されている方達へのニーズ調査でした。

G.Wで帰ってきていらっしゃる方は多いのではないかという話もありましたが、一日かけて一件一件お宅を訪問して、お会いできた住民の方々は6、7件の方でした。
一人一人との会話の時間は短いものでしたが、印象的だったのは「ボランティアの人たちには助けてもらって」という声です。
私はその人のために直接は何も出来ていないはずなのに、「ありがとう」と言われます。
この言葉も、私がここに来ることができているのも、これまでずっと一生懸命な姿で活動してきた人たちがいたからこそなんじゃないかと思います。
だから私も私たちも、たった1人の態度やたった一回の言動で、今まで一生懸命やってこられた方達の想いを壊してしまわないように、そして今後、ボランティアに来る人たちのためにも誠実な態度でいなければならないなと身の引き締まるような気持ちになります。

今回1年8ヶ月ぶりに南相馬市小高区に来ましたが、まだまだ人手が必要なところも残されていると改めて感じました。
これからも私にできることを続けていきたいなと思います。




文責:たか
今日は、福島から南相馬市の小高地区に行ってボランティアを行いに行きました。小高に行く途中、飯館村を通過していると学校のグラウンドに汚染土を仮置きをしていてビックリしました。

南相馬では、自転車に乗って一時帰宅している方達にチラシを配る作業をおこなっていました。自転車で町中を走っていると、人の気配がなく、家の庭は草がぼうぼうに生えていて、その時初めて、住む事が出来ない町とはこういう所なんだと思いました。何軒かは、地元の方が帰って来ていて直接お話しすることまで出来ましたが、圧倒的にボランティアや消防、警察の人たちが多いかったです。

地元の方とのお話は、震災当時の話しや仮設住宅ぐらしの話し以外にも福島の桜や仕事の話し等震災以外の話しもできて、少しでも震災のことを紛らわせる事が出来たのかなって思います。お会いしたおばあちゃんやおじいちゃんは仮設住宅の暮らしは、ストレスが溜まると言っていました。おばあちゃんは、隣に住んでいる方とあまり仲良くなっていなく辛いと言っていました。

岩手や宮城では震災が起きる前の生活に向けての計画が立っていると思いますが、福島では放射能の影響で現段階では、不可能みたいです。津波の被害を受けた人の話しを聞くと、助かった人と亡くなった人の境界線はなく運が良いか悪いかの違いだったらしいです。
その方は、農家の方なのですが、田んぼや畑は土壌が汚染されているらしく、田んぼは使えないらしいです。もし、100Bq以下でもここではお米を買わないと言われたらしいです。現在、線量が低い野菜を作って野菜は自給自足を行っていると言っていました。野菜の中でも線量が高い野菜もあれば低い野菜もあってびっくりしました。

最後に、原発の事、数十年後はどうなっているのか、補助金で裕福な生活ができて震災前よりも稼いでいる人もいる事等、現地に行って自分の目で見て聞く事で、より確実な情報を得る事ができ、自分ががやるべき事はなんなのか?震災で被災された方達に何が出来るのか?これからを担って行く自分たちの世代はどういった事をして行くべきか?といったことを寝る時考えていましたが、とりあえず今自分に出来る事をやろうと思い明日に備えます。






文責:まるた
こんばんは。宮公大のまるたです。今日は南相馬市の方へボランティアに行ってまいりました。
目的地までは飯舘村を通過するという事で放射能測定しながら行ってきました。数値が福島市内より3倍に跳ね上がったのにはびっくりです。
南相馬市小高地区では、ボランティア募集のチラシ配りという事で、自転車で小高地区内を走り回りました。

20km圏内で警戒区域に指定されていたのですが、GWという事で、特別宿泊許可をもらった何人かの住民はそれぞれの家へ戻っていらっしゃいました。
その中で洋服屋さんのおじいちゃんの話が印象的でした。
その日その日、色んな事を感じながら生活をしていらっしゃるおじいちゃん。
目線は毎回何かを決意するように上下し、話を始める。
あの日からどう過ごしてきたか、今何を思っていらっしゃるか。
わたしは頷く事しか出来ませんでした。
最後は明るい話でお別れできたのが救いです。

原発から20km圏内にある小高地区は、当時は立入禁止区域でした。(いまは解除されています)
よって、住民は家を残したまま1年、2年もしくは3年ずっと戻っていません。
人がいない街というのは、これほど奇妙なものとは思いませんでした。
まるで神隠しにあったようで、異世界に来ているようで、おもちゃのお家の集合地域にポンと放り込まれたような感覚でした。
でも、かつてそこに人が住んでいました。
あの爆発だけで、色々な悪循環が生まれてしまいました。
家族の気持ちが離ればなれにならなかったはずです。

南相馬市民の間に軋轢は生じなかったはずです。
福島県内みんなで協力していこうという体制が、岩手や宮城のようにとれたはずです。
そしてそういった問題を生じさせてしまった責任を取っていかねばなりません。
その事をふまえて明日以降のボランティアを続けていこうと思います。
佐藤さんの話も印象的でした。
実際に津波の被害にあった家を見た時、話を聞いた時、やっと「怖い」と心の底から感じました。
やはり、テレビの映像はテレビの映像でしかないものです。

誰もいない荒れ果てた家ではためくカーテン、むき出しの家の土台、そえられた花…
リアルに自分の中に入ってきました。
明日もきっと濃い一日になるでしょう。
被害に遭われた方と同じ辛さを分かる事は出来ませんが、精一杯よりそうべく活動します。

0 件のコメント:

コメントを投稿