2015年3月17日火曜日

2015春被災地ボランティア4日目

文責:宮崎学園短期大学 2年 田代茜
今日は、午前中かりあげ施設に1件と仮設住宅に2件行ってきました。まず、はじめに原発から18キロに住んでいて、20メートルの津波が来た方のかりあげ住宅に行きました。かりあげ住宅とは、仮設住宅の建設が間に合わず、空いている家やアパートを国が借りとった住宅のことです。
この家では、震災で津波が来た時の写真を見ました。家より高い津波の画像があり言葉を失いました。また、高台に避難しても10人の方が流されて亡くなったそうです。このことを初めて知って、その様子を見ていた方のことを思うととても苦しくなりました。
(かりあげ住宅でのお話聞いた方との集合写真)

次の方からは、最初にお米をプレゼントしました。お話しを聞くと目標がないんだ、生きてる意味がないんだ、でも生きてるんだ、すごくつらいという話をお聞きしました。その人の寂しそうな目を見て、震災というもの、原発事故というものがいかに大きい災害だったかを思い知らされました。また、この方は、缶ビールやペットボトルで風車を作っています。一個ずつプレゼントをしてくださいました。

3件目の方にも、最初にお米をプレゼントしました。この方は、渡した瞬間に涙を流されて、ありがとうと言われました。そして、家の中でお話しを聞かせていただくことになりました。仮設住宅は、とても狭かったです。狭いと聞いていましたが、どのくらいなのかは想像できていませんでした。この狭さにとても驚きました。お話しを伺うと地震の被害も津波の被害もなかったそうで、原発事故だけの影響で家に住めなくなったそうです。もう私たちが生きている時にはこの家に帰れない、小学性の孫がおばあちゃんちにいきたいと言われた時、すごく寂しくなったと涙ながらに話をしてくださいました。旦那さんは、昔の生活にいつ戻れるんだ、自分の生活が元に戻らない限りは安心して生活することができないとおっしゃっていました。田舎なりの生活をしていたけど生活の基盤がなくなったとも話をされていて、4年経った今でも苦しい思い、悔しい思い、たくさんの思いを持っているのだなと感じ、それをサポートできることはしていきたいというふうに感じました。
(3件目の仮設住宅でのお話)

仮設住宅の訪問が終わった後に、浪江町の視察を行いました。ここは、警戒区域で普段は入ることができず、ツアーといて同行させていただきました。話を聞いていて、胸が苦しくなるようなことばかりで、言葉を失いました。
私が、もっとも印象に残った出来事としては、請戸小学校に行きました。ここは、東日本大震災前の日の地震で職員会議を開き、避難する丘を決めていたそうです。だから死者が一人も出なかったそうです。ちなみに、東京電力福島第一原子力発電所から5~6キロの地点に小学校があり、放射線量は0.07μSv/hで宮崎と変わりませんでした。風向きによって、放射能が流れたため、ここは、高くないということです。
(卒業式のモニメントがかかったままの体育館)

いざ、小学校の中に入ると、卒業式のモニメントがかかったままの体育館や3月11日で止まったままの黒板がありました。この黒板には、たくさんの方のメッセージがありました。
もう、なかなか戻れない地区になってしまい、母校がなくなってしまったと考えるとすごく苦しくなり、涙が止まりませんでした。黒板に、彩の字懐かしいねと書かれていて、震災から避難先もバラバラになり、会えなくなったという現状もあるんだろうなと思いました。
(3月11日からそのままの黒板)

明日も、たくさんの方からお話を聞きます。たくさんのことを感じ伝えることができるように、しっかりと学んでいきたいと思います。







文責:内田拓磨 38日 雨

今日の午前中は借り上げ住宅と、仮設住宅を訪問してまわり、そこに住んでいる方にお話をたくさん聞かせていただきました。
津波が押し寄せてきたときの写真や、どこまで津波が押し寄せたのかが載った写真を見せていただき、津波の高さ、強さなど、どれだけ被害が大きかったのかが改めて分かりました。
仮設住宅に住んでいる方は、暮らしていくうえで感じる不便も話してくださいました。仮設住宅にいても食事をして寝ることの繰り返しで、生きている実感がないそうです。しかし、僕が訪問した方たちは、自分の趣味の縫い物を作品展に出店したり、ペットボトルで風車を作ったりと、毎日を充実させていました。この方たちから、今の辛い状況を前向きに進んでいこうとする強い気持ちが伝わってきて、感動しました。

午後には浪江町を視察しました。震災当時から4年経ちますが、今も浪江町は当時のままの姿で、建物は残っているのに人の姿はないという、とても寂しい風景が広がっていました。誰にも知られることなく、ずっとこのままの状態なのかと思うととても悲しい気持ちになりました。
                 <震災当時そのままの姿の浪江町>


明日も体調に気をつけつつ頑張っていきます。







文責:松崎喜代治

四日目ははじめに借り上げ仮設住宅に行きました。そこで被災者の方が取られた津波の写真を見せてもらいました。被災者は同じ地区の方と一緒に高台に避難されたそうですがその高台にも津波が来て何人かの方が津波で亡くなられたそうです。高台に避難されても津波が来たことから自分が思っていた以上に高い津波が来たんだなと思いました。

二件目に訪問させていただいた仮設住宅では支援物資のお米を1キロ持って一件づつ周りました。日曜日ということもあり留守にされている方が多かったです。
<仮設住宅でのお話>

四件目でようやく入居者の方と会うことができました。そこの方から被災当時の状況を話していただきました。震災から四年経とうとしているのにいとこの方と未だに連絡が取れていない話、支援物資の配給の時に2時間並んでパンが一個しかもらえなかった話、広い体育館にストーブが一台しかなくて30分毎に移動させながら使用した話など当時の状況を詳しく話してくれました。
一番印象に残った話はバスで避難された方が行き先を知らずに乗って行き着いた先で現地の人に聞いて自分がどこにいるのか把握できたという話でした。

最後に横浜に避難された時に学生ボランティアの活動を見て感動したという話を聞いて自分達も活動を頑張って行こうと思いました。

浪江町に行ったときに瓦礫などがそのまま残っていて当時の状況が知れてよかったです。改めて津波の恐ろしさを知ることができました。
<津波で潰された車>






文責:遠矢聖仁
被災地ボランティア4日目。

昨夜から嘔吐や下痢などの症状があり、病院に行ったのですが、宿泊している施設に泊まっている、約20人のボランティアさんたちへの感染の疑いもあったため、大事を取って病院の方に入院させていただいてました。

検査の結果、感染性ではなく、昼食で食べたおにぎりが15時間前の前夜に作る際に、みんなはサランラップで作ったのですが、私だけ素手で作りその際のブドウ球菌の繁殖による、おにぎりの食あたりということでした。

嘔吐も熱も治まり、前夜から十数時間で退院となりましたが、前回に引き続き、カリタスのシスターを始め、小玉さんや他のメンバーに大変ご迷惑をおかけしました

《入院患者》

今日は、前回の被災地ボラで経験した事の無い、仮設住宅での戸別訪問や借り上げ仮設の被災者の傾聴ボランティアもあり、午後の浪江町の視察など、楽しみにしていた内容の日だったので残念な気持ちは大きいですが、今は体力の回復に全力を注いで、他のメンバーからの報告を聞いて、少しでもその穴を埋めようと思います。





文責:田渕亮丞
今日は午前中に仮設住宅で傾聴訪問をして、午後からは浪江町視察に行きました。
今回は浪江町にあった小学校のことを書かせて頂きます。

浪江町の請戸小は原発から10キロ圏内に有り、立ち入りが禁止されているところです。今も4年前の震災直後の状態のままで保ち続けているところです。

教室の黒板には陸自や子供達のメッセージがたくさん残されていました。
<4年前からみんな励まし合っている>

その中に、『今までありがとう!請小を卒業出来て俺は誇りに思う』と書かれていました。
普通の小学校だと6年間のいい思い出が詰まった場所という意味で感謝の気持ちが伝わってきます。

しかし、ここ請戸小ではあまりにも変わり果てた姿を見て、私は請小での思い出、離れ離れになった友達になど、いろんなものに向けて書かれた別れのメッセージだと感じました。
絶対に涙ながらに書かれていたに違いありません。
教室の窓からは原型をとどめていないトラックや、崩れた家など、津波によって受けた被害が一望できました。
その奥には海が見えており、四年前までは綺麗な海の見えていたに違いありません。今となっては放射線が垂れ流してある汚染された汚い海へと変わってしまいました。

<みんなで励まし合っているのが分かる黒板>

他にも、『浪江東中学校に行きたかった』というメッセージが残っていました。

普通の生活をしていれば行けたかもしれないが、今の浪江の話では明らかに原発か津波の影響で行けなくなったと考えられます。

これは、まだ10歳程度の子供達が大きく人生を左右させられたということです。
卒業しても中学でまた一緒に会おうと約束していた子もいたに違いありません。
しかしこの津波が周りの人や建物を飲み込み、原発が人の夢や思い出の地を奪い去っていきました。それがどんなに残酷なことなのか今一度考え直すべきだと思います。

津波の影響で体育館の床が抜け落ちたり、壁が剥がれていたり、教室が崩壊寸前などボロボロの状態で、四年間今も持ちこたえている請戸小学校の姿は、まるで今でも生徒たちを待っているように見えます。


他にもいろんなメッセージを見ましたが長くなりすぎるので省かせていただきます。
今回は小玉さんやアースウォーカーズの先輩方の写真や言葉を聞き、実際に行ってみないとわからないと思い、ボランティアに参加させていただきましたが、本当にその通りだったんだと思います。
もうこれ以上こんな悲しい出来事を繰り返さないためにも、原発や戦争を止めていかないといけないと思いました。




文責:田中さやか
今日は、借り上げ仮設というものがあるということを初めて知り、その一つに行ってきた。
<福島で活動されている方とお話をした>

借り上げ仮設というのは、仮設が不足していたため行政が代わりにマンションなどを借りて仮設住宅地6人以上の家族限定で住めるようにしたものです。
今日私たちが訪れた借り上げ仮設に住んでいらっしゃったのは、心臓を患った80代のおじいちゃんとその息子さんのお嫁さんの2人でした。
<コタツで借り上げ仮設のかたのお話を聞く様子>

おじいちゃんの息子さんは震災前に手術したそうです。手術は成功して回復する予定でした。しかし、震災が起こり、原発事故が発生し避難中に状態が悪化して、亡くなったのだという。関連死の扱いとなるのだが、こういった関連死は津波の被害で亡くなった方より多くなっており、深刻なものがあるようです。

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