2015年3月18日水曜日

2015春被災地ボランティア5日目

文責:宮崎学園短期大学 2年 田代茜
今日は午前中は、中島ストアというお店の方のお話を聞きました。この方は、原発事故が起きて、訴訟を起こし、約4000人の原告団長を務めている方です。とても難しい内容でしたが、放射能に対する意識がすごく増しました。原発事故の影響で、魚の種類は160種類から56種類に減ったということを知りました。福島では、56種類に減ったのに、10キロ離れた宮城県では、160種類の漁業をしている、震災から4年経った今私はそのことを知り、情報の少なさに驚きました。
(中島ストア社長の中島さんのお話を聞く様子)

お年寄りの方たちは、どうせ死ぬなら美味しいものが食べたいという覚悟で食べていると言っていて、その覚悟ができないのが子を持つ家族だとおっしゃっていました。水準は100ベクレル以下であれば出荷していいとされていますが、これは、どこまで安全かという証拠はないということでした。
(仮設住宅にて集合写真)

午後からは、仮設住宅に行きました。ここでは、津波の影響で家を失い、家庭の中で亡くなった人が多くいる地区だということです。はじめに聞いて、驚きだったことは、近所の人を見て、良かったと言えないということでした。もしかしたら子供が亡くなっているかもしれないと思うと顔を見ることができないという状況だったと話されていました。また、お話をしてくださった方は、家族全員助かったということですが、近所の人からは、家族全員生き残ったことをひがまれ、なぜあの家だけ生き残ったんだと言われたそうです。生きていて、喜ばれるのではなく批判されるそんな当時の状況にとても苦しく、すごく大変だっただろうなと思いました。
(東日本大震災の慰霊碑で黙祷する学生)
その後、野球場に行きました。この野球場は、地震が来て避難し、球場のグラウンドにいる人と観客席にいる人で分かれていたそうです。そこに、津波が押し寄せ、観客席にいる人は助かりましたが、グラウンドにいた人は洗濯機のようにぐるぐる回り水に溺れていき、その様子を観客席にいた人は見ることしかできないと言った精神的にとても苦痛な様子を見ることしかできなかったということです。

明日は、飯館村に視察に行きます。体調管理をしっかりとしながら、村の様子や今まで見た浪江町や南相馬市とどのように違うのかを見ていきたいと思います。





文責:内田拓磨   39日 雨
今日の午前中は、相双民主商工会と中島ストアを訪問しました。相双民主商工会では、松本さんがお話を聞かせてくださいました。多くの情報が隠蔽され、町に設置されている線量計の周りだけ除染され線量を低く見せているなど、驚く話が多く聞くことができました。このような間違った情報や、風評被害によって苦しむのは被災者であると話してくれました。
<相双民主商工会にて>

その後に、中島ストアを訪問し、代表取締役の中島さんに話をしていただきました。中島さんは生業訴訟の原告団の団長で、東電に対する憎しみを話してくださり、政府の無責任さを感じました。

午後は鹿島区にある寺内仮設住宅を訪れました。そこで松野さんがしてくれた話の中には、当時避難した人々の辛かった状況がありました。家族全員が助かったのに、それすら後ろめたく感じてしまう雰囲気が当時蔓延していました。

<寺内仮設住宅で一緒に作った草履>

避難した先で、知り合いやご近所の方を見つけても何と声をかけていいか分からない、人の顔を見ることさえ怖いという状態が続いたという話を聞き、震災が人の内面にも傷を深く刻んだことが分かりました。

寺内仮設住宅にいたお年寄りの方と交流する時間も頂いたので、一緒に小さな草履作りをしながらお話をしました。
震災当時の話も聞かせていただきましたが、世間話もして楽しんであたたかいひと時をすごしました。これからも被災者の方に寄り添って支援していくことが大事だと思いました。





文責:田渕亮丞
今日は朝から民商の松本さんの話聞きしました。
そこで役所などに置いてある線量計は、周りを綺麗に除染して、線量計の針を2、3本いじって実際より少なく見せているという事を知りました。
他にも震災直後、いつもは40分かかる道が6時間かかった事や船がたくさん道路沿いに打ち上げられたりしていた事、原発から近い浪江や双葉では4本の避難経路があったが、一番離れようとした福島市行きでは後に線量が高かった事が分かり、東電や政府に対して情報を隠していたことに怒りを感じている人が居る事などいろいろ教えてもらいました。
最後に今私たちが出来る対策として、家族で避難経路を考えておく事が大切だと教わりました。
震災では携帯電話などの連絡手段が使えなくなるので、万が一災害が起こった時何処に逃げるか考えておけば、家族の安否がすぐに分かり、他人を救える余裕が出来ると言われました。松本さんからは色んな事を教わり本当に為になりました。
<松本さんの話を聞いている学生>

次に中島ストアの社長で弁護団の団長をしている中島さんのお話を聞きました。
ここでもたくさんのお話をお聞きしました。その中でも一番印象に残ったのは、福島で獲れる魚166種類の中で56種しか穫ってはいけなくて、魚の線量の調査では穫って来た魚を種類ごとに分け、各1kgを調査に出し、魚の内蔵を取り出し水洗いをし、ミンチにして計っているという話でした。徹底して魚の線量を下げているという事が良くわかりました。
しかし、数キロ離れた宮城では全く調査をせず、全166種類の魚が市場に出回っている事を聞き、あまりの政府の対応の悪さに驚きました。逆に福島の魚の方が検査されているから安全に食べられるという人も居るそうです。

<中島さんの話を聞いている学生>

それから寺内仮設に訪れました。
ここは津波の影響で避難した方が7割、原発の影響で避難した方が3割いる仮設住宅です。
家族を亡くして1年以上引きこもった人や、おじいちゃんを心配して家に戻った娘さんが津波で流されてた方が居てとても辛く感じました。しかし、一緒に小さい草履作りをしていく中で、みんなとってもあたたかく前を向いて歩いている感じがしました。

次にそば屋をしている鈴木さんを訪れました。
福島全体で風評被害に苦しんでいる人たちが多い事を知りました。
ある本を紹介してもらったんですが、そこには「広島のように不安の象徴から世界一安全な都市へ変わったのと同じくらい時間がかかるかもしれない、待つしか無いと考えるのではなく、待つ事が大事と考えよう」と書いてあり、本当にその通りだなと感じました。





文責:松崎喜代治
被災地ボランティア五日目!今日は午前中中島ストアに行きました。
そこでの話で印象に残ったことは原発の非常事態を想定したマニュアルがしっかりしていなかったこと、たくさんの人が原発事故の影響で収入が減少している人が多い中で漁師だけが事故が起こる前より裕福な生活をしていることでした。
事故前福島県では160種ぐらいの魚が獲れていたそうですが事故の後は56種しか水揚げしていないそうです。しかし10キロほど離れた宮城県では156種すべてが水揚げされていると聞いて、さらに線量を測定せずに出荷していると聞いて驚きました。線量の測定方法やその基準に不安が残り、魚を食べる人は内部被ばくを覚悟して食べていると聞いて複雑な気持ちになりました。
午後から仮設住宅に行きました。その仮設住宅は津波の影響で入居している方が多く居たのでその話を聞かせてもらいました。当初避難所には家族または親戚の方を亡くされた方が多く、知り合いにも声をかけることが出来なかったそうです。その方は家族みんな無事だったそうですが他の方たちから家族が無事だったことをねたまれたと聞き悲しくなりました。その方は他の避難所に移動されたそうです。震災当初は普通では考えられない状態だという事が分かりました。
その日の夜か次の日の朝にミーティングをして一日の反省をしています。





文責:田中さやか
この日は、咳がひどくてドクターストップならぬコダマストップがかかり、一日中寝て過ごしましたw
食欲もあり、活動する気満々でしたが、代表理事の小玉さんが一日休養を取ってまたこれから日にちがあるんだから…ということで休養しておりました。 カリタスのシスターたちのお気遣いにほっこりしながら一日を過ごしました。
<カリタスにてお世話になったシスター>
一日の終わりに、南相馬市役所のユハラさんにお話を聞かせていただきました。
今まで、一般の方からのお話をたくさん聞いて来たのですが、行政側の方からのお話を聞けるということで嬉しかったです。
今回お話を聞かせていただいたユハラさんは住民の声に寄り添いながら地域の事を思う優しい方でした。
人がいない町に人を戻す為に、まずはお店を再開した方に補助金を出す制度などができて少しずつ前に進めるのかなと思いました。今は私が見る限りは町には人は戻っておらず、工事やボランティアの車が通り抜けるだけとなっている。
これからの新たな対応が大切であると同時に、制度がより公平なものになっていく必要があると語っていた。熱い思いを持っている方がたくさんいて福島の希望が見えて嬉しかったです。カリタスのシスターたちのお気遣いにほっこりしながら一日を過ごしました。




文責:遠矢聖仁

被災地ボランティア5日目。
今日は体調もだいぶ良くなったこともあり、午前中だけ連れ出してもらい、中島ストアの社長さんである漁師の方からお話を伺うことが出来ました。

まず印象に残っているのは、『低線量被曝』という考え方のことです。今回の被災地ボランティアの中でも、定められた基準値に満たなければ安全なのだと、科学的な見地からも説明を受けました。しかしそのたびに、もしも自分が福島に住んでいて、小さい子供を持っていたら、、、と考えてしまいます。
学者によってはできる限り線量のあるところから離れなさいと言っている人たちもいるそうです。低い線量であれば被曝し続けても身体に影響が出ないとは断言できないとおっしゃっていました。いろんな立場の考え方はありますが、小さい子供を持つお母さんたちが子育てをしていく上でのストレスになってしまっている事実もあり、どんな理論上の安心だと説明あっても、心で理解するのには相当な時間がかかるのだろうと思いました。

また、とても興味深い話を聞けました。福島では震災以前、166種類の魚が市場に流通していました。
しかし現在では、線量が基準値を下回る56種類の魚しか出回ることはありません。そしてその流通している魚ですら、水洗いして頭と内臓を落としてから、すり身にして1Kgあたりの線量を測っているということでした。
内臓に一番放射線物質が入っているように感じる私は、この測定方法に多少の疑問を感じました。
『頭と内臓は食べない』という前提があってのことらしいですが、それは民間は知りえない情報であり、どうしても隠し事をされているような気持ちにもなります。

しかし中島さんがおっしゃっていたのは、基準を設けて厳しく検査している分、福島の食材は安心できるということです。お話を聞いた相馬から、わずか数キロ離れた宮城では県の方針として、食材の線量を測ることを行っていません。なので、福島では流通していない残りの100種類の魚も、子供達の口の中に入っていきます。宮城では『明るい復興』をテーマに復興作業がかなり進んでいますが、原発のことに目を背けているように感じます。長い目で見たときに、将来子供たちに被害を及ばさないか不安になりました。
夜には、小高区役所に務めてらっしゃる柚原さんのお話を伺いました。
私が、この被ボラ中に入院していたこともあり、震災直後の病院の状況についてとても興味が湧きました。
当時は、患者がどんどん搬送されてくるためベットも足りず、廊下などにもマットレスを敷いて人口呼吸器を置いてどうにか対応していたそうです。
また、原発事故が起こり放射能のことが深刻になると、スクリーニング(被曝量の測定)を受けないと別の地区の人は施設に入れなかったり、原発に近い地域の人から避難してきた人には支援物資やガソリンも提供しないということも起こっていたことを聞き、震災がもたらした、人間の心に与えた闇を強く感じました。


また、避難している地域に税金は納めないのに、その地域のインフラは使っていることの問題など、行政目線でのお話も聞けてとても勉強になりました。



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