文責:宮崎学園短期大学 2年 田代茜
朝一でラジオ体操をして、1日が始まりました。朝6時半からラジオ体操をしたのは小学生ぶりだったのでとても懐かしく感じました。
(朝のラジオ体操の様子)
今日は、南相馬ボランティア活動センターに行きました。
この、南相馬ボランティア活動センターに行く途中の道では、津波が来たところを見ました。あたり一面さら地になっていて、誰も人がいないということがとても気味が悪くなりました。
午前中は、農機具小屋の解体をしました。この場所は、避難指示解除準備区域とされています。
ここは、人が住むことができません。一生懸命住民の方が耕したり、育てたりしてきたこの場所を解体せざるおえない状況にとても胸が苦しくなりました。
(小屋の解体の活動の様子)
昼休憩の時に、当時の様子を聞いた方のお話を聞くことができました。津波が来た時にその様子を見ていた人が足だけが見えたそうです。最初はおもちゃかと思っていたけど実際には、遺体だったという話をきいてすごく苦しくなりました。
テレビでは、復興は進んでいるという情報が流れていますが、実際にはそうではないことも分かりました。まだ瓦礫が残っているところもあれば、ガードレールが曲がっていて、修復されていないところもありました。
たくさんの情報がある中で、自分の目で見て確認することの大切さを学びました。
(旅館の床を強化するため木を測っている所)
午後は、旅館の片付けをしました。何度も来られている方が、指示をして、やり遂げる姿を見て、私自身もこの方のようにもっと頑張らなければなければならないなと気が引き締まりました。
明日も南相馬ボランティア活動センターで活動します。今日の一般のボランティアの方の姿を学び、今日とは、違う姿で私自身活動していきたいと思いました。
印象に残ったのは、松本ボランティアセンターに向かう途中に見た、福島の町の景色でした。曲がったガードレール、並べられた黒い袋、壁が破損した建物など、宮崎では見られないものがたくさんあり衝撃的でした。
小屋の解体作業、旅館の片付けは思っていた以上に大変なものでしたが、終わった後の達成感はとても大きいものでした。
文責:内田拓磨 3月6日 晴れ時々曇り
今日は8時半ころ南相馬市ボランティア活動センター(松本ボランティアセンター)に到着し、大人の方と一緒に活動しました。午前はおもに小屋の解体をし、午後は旅館の片づけを手伝わせて頂きました。
<小高駅に並べられた黒い袋>
<小屋の解体の説明を受ける学生たち>
明日もまたボランティアセンターで活動をするので、体調に気をつけ頑張ろうと思います。
被災地ボランティア2日目
宮崎大学1年 田渕亮丞
今日は朝の6時半からカリタスでラジオ体操をやりました。初めてラジオ体操第二までやって、私は全く分からずみんなに合わせて変に動いていました。
午前中に小屋の解体をして、午後にボランティアセンターの移転作業をしました。
朝、ボランティアセンターに着く前に小高駅という場所を見て周りました。この場所まで津波が来ていたらしく、小高駅から海が綺麗に見渡せました。
当時、津波で海から小高駅までの建物がほとんど流されたことがすぐに分かり、津波の破壊力に驚きました。
駐車場には4年前の3月11日から放置されてる自転車が何台もあり、この中にはもう帰ってこれない人のものがあると思うと色んな感情がこみ上げてきました。
小屋の解体では初めて使う道具がほとんどでしたが、一緒に同行してくださった方に教わりながらの作業でした。休憩時間に同行してくださった方から、小屋の周りは除染されていて線量は全然高くないが、少し離れた藪のなかは除染をしておらず線量は4年前と変わらないというお話しを聞きました。
他にも、当時津波の様子を見ていた人の話やイノブタが大量に発生していることなどを聞き、震災の影響がよく伝わり、本当に日本で起きたことなのかと驚きました。
これからのボランティア活動でもいろんな人の話を聞いていきたいと思いました。
<ボランティアをしているときに出会ったてんとうむしです。力仕事の中ちょっと癒されました!笑>
文責:遠矢聖仁
被災地ボランティア2日目。
今日は朝からカリタスの方々とラジオ体操をして、ミサへ行きました。
カリタスではシスターや神父さんが受け入れてくださっているのですが、だからこそミサへ行くなど、普段はなかなかできない経験ができるのも一つの特徴だと思っています。
そして今日から南相馬市ボランティアセンターに参加しました。
始まる前のミーティングでセンター長がされた、被災地として福島が風化しているというお話は、
『時間が経過する=復興が進む』わけではないと、二日間被災地を見て回っただけでも痛感していた私たちを、やるせない気持ちにさせました。
今回の作業は畑にある農器具小屋の解体作業でした。まず中の木材や農機具等を取り出し、瓦を剥いでから、少しずつ柱を切り出しながら作業を進めていきました。
とてもきつい作業で、最初は正直、きついバイトに臨むくらいの気持ちで気合を入れてやっていました。しかし休憩中にどんな依頼があったのか、この作業にどんな意味があるのか、同じ現場の大人ボランティアの方に聞くと、『棄農ってやつだよ。したくてもできない、野菜はもちろん育ててきた木から、作り上げてきた土から、農業の全てを強制的に棄てなくちゃいけない。人生の全てを否定された、そんな人がどんな気持ちで依頼をされたのか、あなたに分かりますか?』といった事を言われました。心にズシン!ときました。これは、与えられた作業をこなすだけの『お仕事』じゃない。やりきれない程の思いを持った依頼者の方の気持ちに、寄り添わなくてはならない『ボランティア』であることを、心で理解した瞬間でした。
また今回作業をさせて頂いた小高地区は『避難指示解除準備区域』に指定されていて、来年の3月には避難指示が解除されるのだと聞きました。
福島では原発からの距離に応じて『帰還困難区域』『居住制限区域』『避難指示解除準備区域』に分けられています。
もともとこの線引きは、原発からの距離によってなされていますが、事故後の風の流れによって、原発から近いからといって必ずしも線量が高いわけではありません。その逆もまた然りです。除染作業も進み、小高地区の線量は地域によっては、宮崎とほとんど変わらない所もあります。
しかし、一度避難してしまっては時間が経過するとなかなか帰ってこれないのが現実です。
戻ってきてからが大変で、仕事もない、お店もない、学校もないこの地域で、来年から生活しろと言われても難しい話ではあると、大人の方がおっしゃっていました。
ただ、自分たちボランティアが行っているこうした地道な作業が、少しでもここに住んでいた人たちにとって、戻って来やすい環境作りの手助けになれていれば嬉しいと思いました。また、すぐには難しいにしても、5年後10年後、今はボランティアの人間ばかりいるこの町が、地元の人たちによって活気付いていることを想像すると、『復興』という言葉が現実味を帯びて頭の中に浮かびました。
文責:松崎喜代治
二日目は南相馬市ボランティア活動センターに行ってここに寄せられた被災者の方のニーズに応えるための活動をしました。
ボランティアセンターに向かう前に小高駅に寄りました。そこには震災直後から放置された自転車がたくさんありました。震災から4年が経つのに自転車がそのまま放置されているのに驚きました。
ボランティアセンターでは被災者の方から寄せられた依頼の小屋の解体をしました。
小屋を解体している時の休憩時間に少し開けた場所があったのでそこに行きました。その場所から海を見る事ができ更地のままの土地が沢山あることに驚きました。
初日に通過した宮城県と福島県で復興の進み具合の差を感じました。
小屋の解体が終わってからは旅館の片づけをしました。
今日は充実した1日でした。
被災地ボランティア2日目
宮崎大学1年 田渕亮丞
その後に南相馬ボランティア活動センターというところで活動しました。
そこでは津波や原発の影響を受け、避難された方がいつか戻って来られる時に住みやすい環境づくりや除染作業を行っているところです。
(農機具小屋の解体中)
朝、ボランティアセンターに着く前に小高駅という場所を見て周りました。この場所まで津波が来ていたらしく、小高駅から海が綺麗に見渡せました。
当時、津波で海から小高駅までの建物がほとんど流されたことがすぐに分かり、津波の破壊力に驚きました。
駐車場には4年前の3月11日から放置されてる自転車が何台もあり、この中にはもう帰ってこれない人のものがあると思うと色んな感情がこみ上げてきました。
小屋の解体では初めて使う道具がほとんどでしたが、一緒に同行してくださった方に教わりながらの作業でした。休憩時間に同行してくださった方から、小屋の周りは除染されていて線量は全然高くないが、少し離れた藪のなかは除染をしておらず線量は4年前と変わらないというお話しを聞きました。
他にも、当時津波の様子を見ていた人の話やイノブタが大量に発生していることなどを聞き、震災の影響がよく伝わり、本当に日本で起きたことなのかと驚きました。
これからのボランティア活動でもいろんな人の話を聞いていきたいと思いました。
文責:田中さやか
今日は、朝一番に今は使われていない小高駅に行った。 そこは、津波から避難してしまった人が住んでいたところであった。 今はもう使う人はなく自転車置き場には自転車がズラリと並んで、小高工業高校のシールが貼られた物が多くあり、あの時までは活気溢れていたことを物語っていた。今は時が止まったようにだれもいなく、唯一見たのは工事現場の作業員の方一人だけだった。周辺の住宅地やお店が立ち並んでいるが、全く人がいなかった。
<小高駅に置いたままになっている小高工業高校生の自転車>
夜もその場所に行く機会があり、見てみると、道路沿いの街灯と、使われていない公衆電話の灯りだけがついており、駅には灯りはなくなぜかさみしいと感じた。とにかく宮崎で電車通学をしている私には異様な光景でしかなかった。
<小高駅>
最後に、今日一日を通して、感じたことです。一緒にきている2年生のせいじさんの積極的に話を聞きに行こうとする態度を見て、二度目の滞在ということで経験値が高いにしても素晴らしいと思うと同時に、負けたくないなあと思いました。私はあまり人と話をすることを得意とはしていませんが、そういう面でも頑張っていこうと決意しました。
被災地ボランティア2日目。
今日は朝からカリタスの方々とラジオ体操をして、ミサへ行きました。
カリタスではシスターや神父さんが受け入れてくださっているのですが、だからこそミサへ行くなど、普段はなかなかできない経験ができるのも一つの特徴だと思っています。
そして今日から南相馬市ボランティアセンターに参加しました。
始まる前のミーティングでセンター長がされた、被災地として福島が風化しているというお話は、
『時間が経過する=復興が進む』わけではないと、二日間被災地を見て回っただけでも痛感していた私たちを、やるせない気持ちにさせました。
今回の作業は畑にある農器具小屋の解体作業でした。まず中の木材や農機具等を取り出し、瓦を剥いでから、少しずつ柱を切り出しながら作業を進めていきました。
とてもきつい作業で、最初は正直、きついバイトに臨むくらいの気持ちで気合を入れてやっていました。しかし休憩中にどんな依頼があったのか、この作業にどんな意味があるのか、同じ現場の大人ボランティアの方に聞くと、『棄農ってやつだよ。したくてもできない、野菜はもちろん育ててきた木から、作り上げてきた土から、農業の全てを強制的に棄てなくちゃいけない。人生の全てを否定された、そんな人がどんな気持ちで依頼をされたのか、あなたに分かりますか?』といった事を言われました。心にズシン!ときました。これは、与えられた作業をこなすだけの『お仕事』じゃない。やりきれない程の思いを持った依頼者の方の気持ちに、寄り添わなくてはならない『ボランティア』であることを、心で理解した瞬間でした。
また今回作業をさせて頂いた小高地区は『避難指示解除準備区域』に指定されていて、来年の3月には避難指示が解除されるのだと聞きました。
福島では原発からの距離に応じて『帰還困難区域』『居住制限区域』『避難指示解除準備区域』に分けられています。
もともとこの線引きは、原発からの距離によってなされていますが、事故後の風の流れによって、原発から近いからといって必ずしも線量が高いわけではありません。その逆もまた然りです。除染作業も進み、小高地区の線量は地域によっては、宮崎とほとんど変わらない所もあります。
戻ってきてからが大変で、仕事もない、お店もない、学校もないこの地域で、来年から生活しろと言われても難しい話ではあると、大人の方がおっしゃっていました。
ただ、自分たちボランティアが行っているこうした地道な作業が、少しでもここに住んでいた人たちにとって、戻って来やすい環境作りの手助けになれていれば嬉しいと思いました。また、すぐには難しいにしても、5年後10年後、今はボランティアの人間ばかりいるこの町が、地元の人たちによって活気付いていることを想像すると、『復興』という言葉が現実味を帯びて頭の中に浮かびました。
文責:松崎喜代治
二日目は南相馬市ボランティア活動センターに行ってここに寄せられた被災者の方のニーズに応えるための活動をしました。
ボランティアセンターに向かう前に小高駅に寄りました。そこには震災直後から放置された自転車がたくさんありました。震災から4年が経つのに自転車がそのまま放置されているのに驚きました。
ボランティアセンターでは被災者の方から寄せられた依頼の小屋の解体をしました。
小屋を解体している時の休憩時間に少し開けた場所があったのでそこに行きました。その場所から海を見る事ができ更地のままの土地が沢山あることに驚きました。
初日に通過した宮城県と福島県で復興の進み具合の差を感じました。
小屋の解体が終わってからは旅館の片づけをしました。
今日は充実した1日でした。
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