2015年3月19日木曜日

2015春被災地ボランティア6日目

文責:田代茜
今日は、5泊お世話になったカリタスとお別れしました。このカリタスは、キリスト教の施設なのですが、朝ごはんと夜ご飯をいつも作ってくださったり、暖かく迎えてくださったりと疲れた体を癒す場として最も最適な場だと思います。「愛は食から」とおっしゃっていて、とても美味しいご飯をいただきました。
(カリタスの方との集合写真)

カリタスをでて、飯館村に行きました。当時国は30キロ圏内は全員避難としましたが、飯館村は唯一40~50キロ圏内にも関わらず、全村避難となった場所です。東京電力福島第一原子力発電所の影響で北西方向に放射能が降り、その位置に飯館村だったから
です。

飯館村の小学校に行きました。ここの当時の線量は、3μSvあったそうですが、除染活動が終わり、0.3μSvまで下がっていました。小学校には、10年間は戻さないと言っているそうです。
本来なら子どもたちがいるはずの学校は、何も声がせず、とても寂しく感じました。

(震災前の臼石小学校)

現在は、3つの小学校が合併してプレハブで授業を受けています。プレハブごとに学校は分かれていますが、図書室や音楽室などは、一緒に使っているようでした。

(震災後の臼石、草野、飯鎚小学校)

その後は、今日から宿泊する福島市にある笹谷仮設に到着しました。笹谷仮設は、浪江町での避難者が多いそうです。ここの方達もすごく暖かく、残りの宿泊も心地よくできそうです。





文責:田渕亮丞
今日は五日間お世話になったカリタスを出発して、笹谷仮設に移動しました
<最後に今までの感想を言い合った>

まず南相馬の海に行きました。向かう途中には球場や学校などにプレハブの仮設住宅が多く有りました。
海に着くと風が強く波が荒れていて、見ただけで恐ろしいと感じてしまうほどでした。これが津波で来たらと思うと恐ろしくて想像出来ません。

次に原発から30km以上離れているが、全村避難となった飯館村の視察に行きました。そこには山積みにされたフレコンバックが有りました。飯館全域線量が高く、風向きでここまで変わるものなのか驚きました。

しかし、飯館の役場に行くと線量が低くなりました。ここは自衛隊の人たちが一生懸命除染し、線量計の近くはマイナスドライバーなどでレンガとレンガの間の土を綺麗に取り除き、その線量を飯館の基準としているそうです。この事を知り、国は情報を隠さずにありのままの現状を公表して欲しいと感じました。




文責:内田拓磨  310日 晴れ
今日から福島市の笹谷仮設住宅に泊まるので、荷物をまとめてカリタスを出発しました。カリタスのシスターたちはとても優しい方で、毎日あたたかい料理を作ってくださいました。疲れて夜に戻ったときも「おかえり」と迎えてくれ、その日のことを共有できるとても素敵な場所でした。

カリタスを発ったあとは、飯館村へ向かいました。その村にある白臼小学校を訪れたとき、防犯パトロールをしている人が二人いました。飯館村は全村民避難になっていますが、建物はそのままになっているため、空き巣などいないか見回っているそうです。また、飯館村には、南相馬市に比べ多くの黒い袋が積まれていて、驚きました。
      
                    <飯館村に置かれた黒い袋>

笹谷仮設住宅に到着し、地元の人と交流する機会があり、夕方頃になると中学生の男の子が集会所に来ました。明日も体調に気をつけ、多くの人と交流したいと思います。





文責:松崎喜代治  被災地ボランティア六日目
今日は南相馬市から福島市の笹谷仮設に移動しました。飯館村を通った時に人の少なさとフレコンバックの少なさに驚きました。
放射能汚染の影響で人がいなくなった飯館村を見て人が暮らしていないとさみしい場所になるという事がわかりました。
臼石小学校を見た時には除染してもそこそこの線量があって、しばらく戻って来ない方が良いだろうなあと思いました。仮設校舎を見て思ったのが、学校が3つ一緒にやっているのでいろいろ不便だろうなあと思いました。






文責:田中さやか
飯館村に入って、本当なら、自然いっぱいの良い村だっただろうに、プレコンバックが山積みになってしまい、昔の姿は無くなっていて寂しい気持ちになった。また、あの黒く山積みになったプレコンバックはあのままなのか?という疑問を持ちました。
除染で表土を削る事によって生態系も崩れ、表土も削ると土砂崩れなどが起きやすくなる。そこに住んでいた生きものたちの生きていく環境が破壊されている。とても悲しいことです。

<飯舘村で見たならべられていくプレコンバック>

また、バスで通う子どもたちの歩く事が少なくなって、体力も衰えてるだろうから、深刻な問題だと思いました。



文責:遠矢聖仁  被災地ボランティア6日目。
今日で五日間お世話になったカリタスを後にしました。
今回も、ここを拠点に屋外でのボランティア活動にも参加させて頂きましたが、とても体力の使う作業で終わる頃にはへとへとだったにも関わらず、戻ってくれば心優しいしいシスターとおいしいご飯が待っていたため、みんな翌日も頑張ろう!という明るい気持ちになれていたのだと思います。特に私は、病院に入院してしまいましたが、病院までの車の中ずっと手を握っていてくれた優しさに感動すらしていました。

このような、被災地ボランティアの人たちを受け入れて下さる施設があるからこそ、遠く離れた地域からでも継続した支援が出来るのだと思います。
本当にお世話になりました。
《前夜のお別れ会の様子》

南相馬から福島市へ向かう途中では、原発事故後の風の流れにより、多くの放射能が降り注いだ飯館村を通りました。町は店の看板やタイヤのない車なども放置されているなど、かなり原発事故後から手つかずの風景も見て取れました。山を削りとった所に異様なくらいの数の、放射線物質の入ったプレコンバックが積み重なり、景観どうこうの話ではないなと思いました。

立ち寄った臼石小学校では、飯館村全体が全村避難になっているため、空き巣が入らないように見守り隊のお父さんたちがパトロールしてらっしゃるところに居合わせました。子どもたちは10年間は帰ってこれないというお話を聞きました。小学校に設置してある測定器は、除染が進み比較的低い値を示していましたが、少し学校から離れると車の中ですらみるみる線量が上昇し、子どもたちが歩く歩道や、寄り道するであろう草むらや藪の中はどれほどの値を指すのか、とても不安になりました。
《立ち寄ったかしまの『奇跡の一本松』》

夕方には、浪江町に住んでいた方たちが入ってらっしゃる笹谷仮設住宅に到着しました。今日から最終日まで、この仮設の集会所に停めて頂きます。

自治会長の方たちのお話を聞くと、震災後最高で320世帯程住んでいたこの笹谷仮設も、今では半分になってしまっているというお話を聞きました。以前ニュースで見た、公営住宅に移ったり家を建てるなど、新しい一歩を踏み出して行かれる方がいる中、仮設住宅の孤立化が深刻化している話を思い出しました。
 《津波が来る以前の浪江町》

若い人たちは新生活に踏み出しやすいが、今から新生活を送ろうとは中々思えないご年配の方々にとっては、つながりが途絶えたりと、大きな問題になりつつあるなと感じました。

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