2015年6月13日土曜日

6日目 浪江視察 

こんにちは、小酒井です。6月2日は福島市から伊達市、相馬市、南相馬市、浪江町というルートを通って視察してきました。

最初行った伊達市は震災当時、特定避難勧奨地点とされており、一律的な避難指示や産業活動の規制は行わず、放射能の影響を受けやすい妊婦や子どものいる家庭に対して特に避難を促す対応がとられた地域です。なので伊達市立小国小学校は登校する児童全員をスクールバスで登校させていました。これは今も続けているそうです。


伊達市立小国小学校です。


小国小学校の向かいにある草原の線量は2,11マイクロシーベルトでした。


南相馬市を通る国道6合線の風景。だだっ広い平野が広がっている。


震災後営業が出来なくなって建物だけ取り残されている。


小高工業高校は警戒区域にあり今は仮設校舎で生徒は日々勉強している。ただ、「南相馬市避難指示区
域帰還促進計画」に基づきH29年には元の場所に移るそうです。


今回の視察の案内をしてくれた三浦さんの家も津波と地震の被害で住めなくなり、今はその土地を利用してソーラーパネルを設置していました。


ここで発電したものを東北電力に売っています。環境省はこの近くに放射能がれきの仮置き場を作っている中で、農水省はこの地で農業を再開させると言っているそうです。


三浦さんの家からそんなに離れていないところで、これほどの敷地をがれきの仮置き場にしています。


地中に放射能が漏れる可能性がないわけではない。


ここは線量の低い土地でしたが、そこを放射能がれきの仮置き場にしているのが実態でした。そして、来年の4月には帰宅が始まります。帰宅希望者は町民のなんと13%しかいないと言います。

この後、一時立ち寄りに許可証がいる場所にも入っていきました。


津波の被害がなかったのですが、地震で1階が潰れています、建物の二階に掛けてあった看板がみえます。



ここからは、津波被害があった地域を周っていきます。



かなりがれき処理が進み泥も掻き出されましたが、それでもまだ車やタイヤなどが残されたままの所もちらほら点在していました。

先に見えるのが焼却炉。先週開業したばかりで、中間貯蔵施設に送る前に燃やせるものをここで燃やしています。このような焼却炉が浪江町、南相馬、富岡町の3箇所に設置されています。


津波で一階が流されたお家です。津波にも耐えて残った家は、その後の原発事故の影響で住めなくなったとして、東電の賠償対象になりました。しかし、津波によって全部流された家は東電の賠償対象にはならないという保障の対象にも差が生まれています。


そして、遠くに見える山の先にある白い屋根が福島第一原子力発電所です。


上の写真の拡大です。山の先に白い建物が福島原発。

請戸小学校にも行ってきました。この小学校は地震発生後から近くの山に生徒全員を避難したので一人として津波の被害を受けずに済んだ小学校です。


請戸小学校です。時計の時間は津波発生時間で止まっています。


一階は完全に津波にのみ込まれました。


体育館です、卒業式の横断幕がそのまま残っています。ここの時計も津波発生時間で止まったまま。


ここは二階の教室なのですが、水は黒板の20〜30センチ下まできていました。壁に少し泥が見えるのが津波の来た水位です。


二階の教室から見える福島第一原子力発電所。白の屋根です。

浪江町に来ましたが人が全然いませんでした。



浪江駅で線量を測ったら6,91マイクロシーベルトありました。


福島民報の中に2011.3.12の新聞が置かれたままになっていました。


地震の大きさがわかります。地盤も陥没している箇所もありました。

震災から4年が経って復興が進んでいなわけではありませんでしたが、人が住み生活をし、農業や漁業で暮らしていくことはこの先訪れるのか。何か少し違和感が残りました。国は無理やり人を戻して、それを「復興」という言葉で片付けてしまうのではないか。そんな恐ろしい想像をしてしまいます。

以上。

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