2015年6月11日木曜日

3日目 仙石線開通から福島市仮設聞き取り



 こんにちは、小酒井です。5月30日は仙石線の全線開通を迎える日でした。

石巻駅には普段では見られないほどの人がいて、お祭り騒ぎでした。ホーム内で式典が行われるようで報道陣も詰めかけ周りを見物人が囲っていました。


 石巻から仙台が開通したという事で沿道からも歓迎をしている人や、カメラを持って撮影している人を多く見かけました。

また、石巻駅だけでなく仙台に着くまでの数駅で記念式典をしているのも目にしました。


 震災から4年がたちましたが、津波被害からの復興も被害状況に差があったり震災復興住宅の建設などでまだまだ元の暮らしに戻れるようになるには時間がかかりそうでした。


 そして、福島県に入り、福島市笹谷東部仮設住宅で震災当時から今までの経緯と、仮設住宅の暮らしについての話を聞かせてもらいました。


59才男性
3・11直後は浪江の実家にいた。そこで一晩を過ごす。12日の朝避難命令が出て津島小で二晩を過ごす。川俣町に避難した所で息子さんに迎えに来てもらい栃木県さくら市に移動し3世帯で一晩過ごす。浪江役場役場の東和体育館に行った。そこには240人がいた。4月11日から二次避難で猪苗代の民宿に5月6日までいた。レイクサイドという宿に寝泊まりして5月21日に笹谷東部仮設住宅に入った。
今の仮設には年配の方が多くなっている。ここの笹谷の仮設住宅は周りに病院やスーパーや銀行が近くに揃っている立地的な環境はいい。だが、やはり部屋が狭いので早く出たい気持ちがある。もともと漁師や農家が多いので仮設に移るとすることがなくて気持ちも落ち込んでいる。再就職も住民票が浪江になっているので正社員として働けない部分もある。
浪江に戻りたいけど戻れない。みんなだんだん諦めてきている。笹谷の仮設住宅にはボランティアの人がよく来て交流の場をもうけている。交流を通して現状を知ってもらっている。進まない復興住宅で仮設から出られないのでボランティアで来ている方々とワイワイするのは楽しみでもある。
震災後の福島県の復興はまだしていないし、福島のことを風化させないでほしい。ボランティアで来た方々にこの実態を見てもらって、それを地元に帰って伝えてほしい。これが一番大事なんです。原発事故の教訓を未来に活かしてほしいと願っている。

写真の左に見えるのが笹谷東部仮設住宅。
自治会長さん
会長をしていて一番大切にしているのが仮設住民への声かけ。孤独死をなくす為にも話しをしたり挨拶は欠かさない。
仮設住宅はカビがすごく生えてしまう。震災後の仮設のお風呂には追い炊きがなく家族で住んでいると最後に入る人の湯が冷めてしまっていた。そんな暮らしの中でる問題を行政に伝えて一つ一つ解決してきた。しかし、天井が低く屋根が鉄板の為夏はすごく暑くなるなど、どうにもならないこともある。
今までたくさんのボランティアの方々に実態を話したりしてきて、私は絶対に自分の部屋に来てもらう、それは仮設暮らしの実態が一目で分かるからだ。知ってもらにはそれが一番いい。
故郷に帰っても仕事がないし、インフラがどのくらい整備出来るかも分からない。帰った所で生活が続かないと思う。
若い家族は仮設をどんどん出て行く中で、お年寄りが取り残されているのが現状である。もともと大家族で住んでいた家族を引き裂いていっている。

笹谷の仮設住宅とは別の仮設に入った時に撮った部屋の中の様子。4畳の部屋が2つとキッチン、お風呂、トイレという感じだった。
奥に見えるカーテンの所がお風呂とトイレになっていて、右側の部屋はキッチンになっていました。
聞き取りした二人ともこの原発事故から今も続くこの生活から早く抜け出したいが,
なかなかそういう訳にもいかない状況のようでした。そして、こんな生活が今も続いていることを風化させたくないという強い気持ちを持っていました。
以上。

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