文責:宮崎学園短期大学 田代茜
今日は、カリタスを去り岩手・宮城に向かいました。初めに陸前高田市の奇跡の一本松を見に行きました。そこには、たくさんの人が見に来ていました。崩れている家はありましたが、海の方は防波堤が作られ始めており、もう海は見えなくなっていました。
(陸前高田市の奇跡の一本松)
次に南三陸町にいきました。途中で切れた線路は、経費削減のためバス専用道路となり、電車が走ることはないそうです。津波の影響が大きかったところをみると水の威力は、本当にすごくて怖いものだなと感じました。
次に防災庁舎にいきました。当時は、絶対に壊れないとして作られた防災庁舎も骨組みだけ残り、全て流されてしまいました。この防災庁舎で生き残った人は、たったの一人でした。生き残った人はその後、なぜ周りを助けなかったんだと生きていてもこのような言葉を発されていたそうです。また、ここで流された人は4人まだ見つかっていないそうです。
(津波の被害が大きかった防災庁舎)
防災庁舎の周辺は土地の底上げで山を削りたくさんの土を持ってきていました。福島県の沿岸部では、見ることのできない光景でたくさんの重機の音や工事現場がありました。
最後に私の宿泊先となった石巻市で税理士をやっている庄司さんのお話を聞きました。震災当時にあった話を聞きました。庄司さんは、地震のあと自転車で「津波が来るから逃げろ」と街を駆け巡ったそうです。
庄司さんの奥さんは、30人ぐらいの方がいる中でどこに逃げるかの判断をしなければならない状況になり、山に向かう途中が渋滞している可能性があることから、一回外には逃げたけど「前にいたビルだ」と指をさし全員でビルの5階に逃げたそうです。その時の心境は、判断をし指をさした時には、私の判断でみんなの命が決まると指が震えていたそうです。
庄司さんの奥さんは、30人ぐらいの方がいる中でどこに逃げるかの判断をしなければならない状況になり、山に向かう途中が渋滞している可能性があることから、一回外には逃げたけど「前にいたビルだ」と指をさし全員でビルの5階に逃げたそうです。その時の心境は、判断をし指をさした時には、私の判断でみんなの命が決まると指が震えていたそうです。
津波の時は、家族などの絆は一回無くして逃げる。この姿勢がないと逃げられないということを聞きました。家族のことを心配した方一人の方は、水がまだ肩まである状態で家族がいたはずのビルにいくため避難所から出て行きました。ところがその方は低体温症で亡くなられたそうです。
この話を聞き、私は家族とは避難場所を決めておきお互いを信じながら自分自身で逃げていくことが大切だなと思いました。
庄司さんかのお話で印象に残っていることは、人間は、自分に都合のいいことは受け入れ、悪いことは無視するということです。たとえば津波情報がながれていても、今までこんな津波は来たことがないからこないだろうというように悪いことは流し、いいように考えるということです。
災害時はこうなりやすいということを知ることが大切だと教わりました。
文責:宮崎大学1年 井上翔
カリタスを出発した私たちは、まず商工会の松本さんにお話を聞きに行きました。原発は一度事故が起きると取り返しがつかないと強調されていました。補助金をもらいお金を十分に持っている人が自殺をしたという話を聞いたとき、いくらお金があっても大切な家族や住み慣れたふるさとは戻ってこない、そういった大切なものを一瞬にして奪ってしまう震災の恐ろしさを感じました。また、普通の生活ができるというありがたさをみんなが持つべきだとおっしゃっていました。私は、何気なく送っている生活を見直そうと思いました。「人間は欲望のままに進むと、本当に大切なものが見えなくなる、見えにくくなる」。多くの人が口にされる言葉をここでも聞くことができました。
陸前高田市「奇跡の一本松」には、多くの観光客がおり滋賀県から来た人もいました。松の立派さが目を引いたのですが、松の向こう側の建物が津波の被害で損傷しているのが被害の大きさを物語っていました。
PEACE BOATでは、東日本大震災が起きた際には津波の被害が大きかった宮城県石巻市で支援活動を行ったと聞きました。津波の被害によって生活の基盤である漁港や地域のコミュニティーが失われ、多くの方が将来を不安に思いました。少しでも石巻市の力になりたいと活動してきたけれど、最近は東京五輪に向け働き手が流れていって復興が遅れているそうです。東日本大震災が忘れられつつあることを悲しく思います。今も被災地で苦しんでいる人が多くいることを伝えていきたいです。
税理士の庄司さんには避難所運営の話を聞きました。庄司さんは、震災の際には避難所のリーダーとして、運営をされました。「避難者が1500人、おにぎりが300個あったらどうする?」という質問を私たちにされました。子どもから食べるや5分の1ずつ食べるという意見が出ました。庄司さんは人数分までそろうまで配らないとおっしゃいました。少しの量を食べてもお腹は満たされないし、一部の人が食べたらもめ事が起きる可能性があるからです。防災マニュアルにも全員分がそろうまで配ってはいけないと書いてあるそうです。知識があった庄司さんだからこそ、避難所を上手に運営できたと思います。
今日は仮設住宅に泊まります。泊まらせていただく阿部さんにもたくさんお話を聞きたいです。
文責:松崎喜代治
朝、三泊したカリタスを出発しました。最初に商工会の松本さんにお話を聞きに行きました。震災後、仕事や進学の関係で家族がバラバラになったという話や震災関連死が津波による被害者を上回ったという話を聞きました。他には電源交付金は電気料金から払われていた話や原発を町の境に作った理由など知らなかったことを知ることができてよかったです。
夜、税理士の庄司さんの所に行きました。その方は避難所のリーダーをされていた方で他の方とは違う貴重な話を聞くことができました。一番印象に残ったことは、支給された物質を徹底的に分配するということでした。避難所には当初1500人ほど避難されていて物資としておにぎりが300個届いたそうです。そのとき全員におにぎりを配ることができないので配布しなかったそうです。そのようなことははじめて聞いたので驚きました。
今日いろいろな人から話を聞いて津波はちょっとした選択の違いで助かったり助からなかったりすることが分かりました。
文責:小玉直也
文責:宮崎大学1年 井上翔
カリタスを出発した私たちは、まず商工会の松本さんにお話を聞きに行きました。原発は一度事故が起きると取り返しがつかないと強調されていました。補助金をもらいお金を十分に持っている人が自殺をしたという話を聞いたとき、いくらお金があっても大切な家族や住み慣れたふるさとは戻ってこない、そういった大切なものを一瞬にして奪ってしまう震災の恐ろしさを感じました。また、普通の生活ができるというありがたさをみんなが持つべきだとおっしゃっていました。私は、何気なく送っている生活を見直そうと思いました。「人間は欲望のままに進むと、本当に大切なものが見えなくなる、見えにくくなる」。多くの人が口にされる言葉をここでも聞くことができました。
陸前高田市「奇跡の一本松」には、多くの観光客がおり滋賀県から来た人もいました。松の立派さが目を引いたのですが、松の向こう側の建物が津波の被害で損傷しているのが被害の大きさを物語っていました。
(奇跡の一本松)
PEACE BOATでは、東日本大震災が起きた際には津波の被害が大きかった宮城県石巻市で支援活動を行ったと聞きました。津波の被害によって生活の基盤である漁港や地域のコミュニティーが失われ、多くの方が将来を不安に思いました。少しでも石巻市の力になりたいと活動してきたけれど、最近は東京五輪に向け働き手が流れていって復興が遅れているそうです。東日本大震災が忘れられつつあることを悲しく思います。今も被災地で苦しんでいる人が多くいることを伝えていきたいです。
税理士の庄司さんには避難所運営の話を聞きました。庄司さんは、震災の際には避難所のリーダーとして、運営をされました。「避難者が1500人、おにぎりが300個あったらどうする?」という質問を私たちにされました。子どもから食べるや5分の1ずつ食べるという意見が出ました。庄司さんは人数分までそろうまで配らないとおっしゃいました。少しの量を食べてもお腹は満たされないし、一部の人が食べたらもめ事が起きる可能性があるからです。防災マニュアルにも全員分がそろうまで配ってはいけないと書いてあるそうです。知識があった庄司さんだからこそ、避難所を上手に運営できたと思います。
(庄司さんの事務所)
今日は仮設住宅に泊まります。泊まらせていただく阿部さんにもたくさんお話を聞きたいです。
文責:松崎喜代治
朝、三泊したカリタスを出発しました。最初に商工会の松本さんにお話を聞きに行きました。震災後、仕事や進学の関係で家族がバラバラになったという話や震災関連死が津波による被害者を上回ったという話を聞きました。他には電源交付金は電気料金から払われていた話や原発を町の境に作った理由など知らなかったことを知ることができてよかったです。
( 奇跡の一本松)
そのあと岩手県の一本松や南三陸町の防災庁舎を見て回りました。岩手県や宮城県を見て思ったことは福島県との復興のスピードの差です。半年前にも行った防災庁舎では周りの風景が大きく変化していることに驚きました。
(土を運ぶためのベルトコンベア)
今日いろいろな人から話を聞いて津波はちょっとした選択の違いで助かったり助からなかったりすることが分かりました。
文責:小玉直也
被災地ボランティアも終盤にさしかかりました。この日は福島県をあとにして、岩手、宮城の津波被災地へ足を伸ばしました。
前日までの津波被災地の南相馬市と浪江町では、津波で流された車や家が残されていました。
岩手県で最初に向かったのが、陸前高田市の奇跡の一本松。最寄りの駐車場には観光バスや自家用車の駐車場がいっぱいで、約10分ほど歩く道のりも観光客でいっぱいだった。
更地だった沿岸部に近隣の山を削った盛り土が10m以上の高さで広がっていました。
トラックやベルトコンベアーや重機の音が鳴り響き、復興への足音が着々と聞こえる感じは、その後に訪問した南三陸町の防災庁舎でも同様で、以前の道路はなくなり、地上10数メートルの所に道路が出ていて、防災庁舎を見下ろすように走っていきました。
各地に観光客でにぎわう宮城、岩手と異なり、放射能の影響で復興への道半ばの福島の違いに、あらためて愕然としました。
石巻では津波から逃れ生き延びた話、孫が目の前で流されていった話、避難所運営の困難さを乗り切るために過去の防災マニュアルが役立った話、などなど多くを学ぶ日となった。
学生たちが、下記ブログにレポートしているのでぜひごらんください。
http://earthwalkers.jp/blog.html
また、学生のボランティア行きの交通費をサポートする寄付も下記からよろしくお願いします。
http://earthwalkers.jp/support.html
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