2015年9月8日火曜日

被災地ボランティア6日目

文責:宮崎学園短期大学 田代茜
 今日は、初めにカーロ福島の樅山さんのお話を聞きました。これまでの様子や、今の様子を涙ながらに話していました。私がこの中で思ったことは、放射能を気にしている人が冷たくされる現状があります。すごく悲しい現実でもっと放射能について心配な人に寄り添っていくべきだと思いました。放射能は、考え方が人それぞれだからもっと一人ひとりを認めていくべきだと思いました。
(カーロ福島での樅山さんのお話)

次に笹谷文化幼稚園に貝がらを届けに行きました。福島のテレビ局や新聞社がきていただきました。貝がらを見せると、子どもたちはすごく喜んでいました。私は2歳の教室に行きました。たくさんの貝がらを見せると、「でかい~」という声や貝がらの様々な柄を見て、「見て見て~」といろんな貝がらを見せ合い遊んでいました。その後は、子どもたちと一緒に外遊びをして交流しました。私が一番嬉しかったのは、園長先生が「年長組の子どもが貝がらの図鑑を見ていました」というお話を聞きました。子どもたちは、普段は花や虫などの図鑑は見ましたが魚などは見ることがないけど、今日貝がらを持ってくると一生懸命調べていたそうです。私は、4月から保育士となります。保育園の方針や自分で図鑑で調べていく力などが本当にすごいなと思いましたし、そういう力を育めるような工夫をしていきたいなと思いました。
(笹谷文化幼稚園で貝がらを子どもたちに渡す様子)

 次にキワニスにいきました。アースウォーカーズのサポートをしていただいています。学生が福島で感じたことを話しました。

 最後に浪江町の視察に行きました。前回浪江を見たときには、車がそのままになっていたり、街に色がありませんでした。今回行ったときには、草がすごく生えていましたが、車や壊れたガードレールはなくなってきていました。原発から5キロで未だに中に許可書がなければ入ることはできませんが、少しは復興がはじまりつつあるのだなと感じました。震災から4年半経った今でも壊れた家などが残されている現状は、知らない方も多くいると思います。もっとたくさんの方に伝えていきたいと思いました。
(3.11の津波で流された熊田さんの家)

 宿泊先は、南相馬のカリタスになりました。南相馬は3日間となります。短い時間の中で、たくsんのことを学んでいきたいと思います。





文責:井上翔
 朝からカーロふくしまの籾山さんにお話をうかがいました。籾山さんは2人のお子さんをお持ちで母親の視点から語ってくださいました。震災後に下の子を連れて避難したそうですが、福島に戻った時、避難しなかった人たちの目線が気になったりして福島の空気になじめなかったそうです。2013年の1月から学校給食では福島産の食材を使うことになり、放射能を気にする母親にとっては、放射能の問題は解決していないのに学校で子どもに食べさせ、もう大丈夫だとアピールする姿勢に疑問を抱いたそうです。子どものためを思っての行動がかえって子どもにストレスを与えたりすることが申し訳なかったそうです。僕は、放射能の問題に来るしみながらも子どものために闘うお母さんたちは力強いと感じました。
 
 笹谷文化幼稚園には木花保育園の子どもたちと宮崎の海で拾った貝殻と砂を届けました。初めて貝殻に触って喜んでいて、子どもたちの笑顔を見ることができて良かったです。子どもたちはすごく純粋で、かわいくってこういう笑顔をいつまでも守りたいなと思いました。
            
 (福島の新聞)

 福島キワニスクラブの定例会に出席させていただき、「ふくしま学びのネットワーク」の前川さんのお話を聞きました。自身は阪神・淡路大震災を高校生のときに経験されていて、そのとき全国の方々から支援してもらったので、今回は力になりたいと思い活動されているそうです。「教育は復興の要」という考えで高校生を東北に連れて行って被災地のことについて学ばせたり、大学生や講師を福島に連れてきて、子どもたちに高い教育を受けさせたりしているそうです。私自身、教員を目指しているため教育から福島を変えていこうという取り組みに感銘を受けました。

 元自治会長の熊田さんに浪江町を案内してもらいました。道には瓦礫や壊れた家などがあり、津波のこわさを思い知りました。請戸小学校には、津波が来た時間のまま止まった時計や卒業式の横断幕が残ったままで床がはがれた体育館、多くの励ましのメッセージが書かれた黒板などをみて言葉が出ませんでした。幸い全員が避難することができたそうですが、津波が残した爪痕は今も残っており、決して忘れてはいけない出来事だと思います。
                
 (津波が来た時間で止まった時計)

 宿泊地のカリタスでは熊田さんに話をしてもらい、原発が稼働している時は経済的に豊かでありがたみを感じていたが、震災後は原発に脅かされるという葛藤が伝わってきました。
                

(カリタスでの食事)

今日も様々なことを感じ考えさせられました。明日から2日間体を使ってボランティアしていきます。少しでも被災者の力になることができれば良いと思います。
 



文責:松崎喜代治
 今日は初めにカーロ福島の樅山さんから話を聞きました。一番印象に残ったことは放射線に対する意識の差が大きく家庭内でも意見が違うということでした。
 貝殻プロジェクトで拾った貝殻を幼稚園に届けに行きました。とても喜んでくれて、園児たちの笑顔が見れてよっかたです。
 
昼にキワニスクラブで前川さんの話を聞きました。高校生の時に阪神淡路大震災に被災されたそうです。教育は復興の要とおっしゃっていて、新しい復興への取り組みだと思いました。前川さんの担任の先生が言われた言葉で「ものは潰れた街は壊れた。けれど君たちが学んだことはどんなことがあっても壊れない、だから今こそ学ぶんだ。それがこの町の復興につながる。」という言葉が一番印象に残りました。
 
前回の被災地ボランティアで大変お世話になった熊田さんの案内で浪江町に行きました。熊田さんが前すまれていた家やお墓や原発から5キロほどの距離にある請戸小学校に行きました。津波がきた時間で止まった時計や卒業式の準備がされたままの体館を見て津波の被害の大きさに言葉を失いました。浪江町は原発から5キロほどの距離にありますが、線量が宮崎県とほぼ変わらず線量は距離によらず風向きの影響を受けるということが分かりました。


夜に熊田さんの話を聞き震災時の大変な状況にあったとうことを聞きました。







文責:宮崎公立大学1年 甲斐 征樹

  今日は自分はこの被災地ボランティア最終日でした。この5日間、とても濃くていろんなことが学べました。
今日は午前中にカーロ福島で樅山さんから話を聞いた後に、笹谷文化幼稚園で木花保育園の子供たちと拾った貝殻と砂を届けました。
樅山さんからは、時間が短かったこともありあまり深く話を聞くことはできなかったのですが、母親として子供を放射線から守るためにいろいろな行動を起こしていることがすごいと感じました。周囲から何と言われようと、食べ物に気をつけるだけでなく、プールの線量の測定を行ったりしているのは普通はできないと思います。そうやって今でも放射線に気をつけてくれる人がいるのはありがたいことだと思いました。

 笹谷文化幼稚園では、貝殻と砂を届けた後に子供たちと外で遊びました。
自分は年中の子供たちと遊んだのですが、とても元気で子供たちの体力にはついていけませんでした笑
(外で遊ぶ子どもたち)

 午後は熊田さんに浪江町に連れて行ってもらいました。
浪江町はバリケードで立ち入りが制限されていているところもあり、地震や津波で被害を受けたわけでもなく目に見えない放射能のせいで立ち入りが制限されて帰れなくなった家を見ると辛かったです。

 場所によってかなり線量の高いところがありました。
(フレコンバック)

 請戸小学校では止まったままの時計、津波で壊された窓など震災の爪痕が残っていました。一方で、各教室の黒板に書かれた応援メッセージは全国から訪れた人が残したもので、「がんばろう福島」「いつまでも忘れない」といった言葉が印象的でした。

(黒板に書かれた応援メッセージ)
 
 夜は熊田さんから話を聞きました。
熊田さんは以前は浪江町に住んでいて、津波で家が流されてしまったため、今は仮設所で生活なさっているそうです。しかし、先がまったく見えずにこの先どうなるかわからないと不安げに語っていました。

 また、原発は反対だけど生活のためには必要なのでは?ともおっしゃっていました。
もし再稼働するなら政府はしっかり事故後の対策を決めてから行ってほしいです。

 今日もたくさんの人から話を聞いていろんな意見があると感じました。
全員の話を鵜呑みにせず、いろんな方向から被災地の問題について考えていきたいです。




文責:宮崎公立大学1年 日高 綾
 今日はカーロ福島の樅山さんにお話を伺いました。樅山さんは福島で被災し秋田と長野に疎開をされた経験がある方でした。2人の息子さんをお持ちで、次男と樅山さんは疎開したけれど、長男は週末疎開をし夫は福島に残っていて、家族バラバラの生活をされていたそうです。そのことから不眠症になってカウンセリングを受けていたそうで、今は福島に戻ってきて生活をされていますが、外部被曝は避けられないので、食事には気を使って内部被曝は出来るだけしないように頑張っておられます。その他にも、夫や周りの人たちとの意識の差に苦しみながらも、子どもの安全の為に1人で闘っておられて、自然と涙が出てきました。
(樅山さんのお話を聞いている様子)

 次に笹谷幼稚園に行き、宮崎で取った貝殻を届けに行きました。子どもたちも喜んでくれて、貝殻図鑑で貝殻の種類を調べたり、外で一緒に遊んだり出来て、世あったです。色んな子どもたちが帰る時に「また来てね!絶対だよ!」と言ってくれて、またこの子たちに会えたらいいなと感じました。お分かれする時にずっと名前を呼んでくれていて、寂しくなりました。
(笹谷幼稚園の子どもたちがお別れを言ってくれている様子)

 お昼は福島キワニスクラブの例会に行って、ふくしま学びのネットワークの理事・事務局長の前川さんのお話を聞いた後、アースウォーカーズの活動を発表させて頂きました。
(アースウォーカーズについて発表している様子)

 その後、波江出身の熊田さんに許可書が無いと入ることが出来ないところまで、連れていってもらいました。行く途中で飯舘村を通りました。私が高校3年の文化祭でクラスで飯舘村舞台の演劇をして準優勝をとったので、行ってみたいと思っていました。実際に行ってみると、フレコンバッグが街中や、緑の中に想像以上に沢山あって、驚きました。
(フレコンバッグがたくさん山積みされている様子)

 夜は熊田さんにお話を伺いました。避難の状況などを詳しく聞いて、本当に驚きました。家族でおにぎり1個とかパン11個で、仮設に入るにも役場に1週間待機しなければならなかったそうです。そして、熊田さんの子どもさんは、1学期に3校転校をして、他の人は10以上の学校を点々としていたらしいのですが、私は転校をしたことが無いので、とても大変なんだなと感じました。





文責:小玉直也
この日の福島はメインイベント目白押し!!
東京電力福島第一原発では今も基準値を超えた放射能汚染水が流れ出る事も多く、福島の砂浜や海岸に子どもを近づけるのが不安という保護者は少なくありません。

そんな声を聞き、アースウォーカーズでは宮崎の木花保育園の園児と貝殻を拾って来たので、それを福島市の笹谷文化幼稚園に届けてきました。

大小様々な貝殻を触りながら、擦らせて音をたて、子どもたちは大はしゃぎ。
宮崎の子どもたちのプレゼントで福島の子どもたちが笑顔になり、ホント良かったなぁ〜!!
(木花保育園と言ったのに、幼稚園になっている〜???)
この園では、2011年の原発事故を受け、外にあった砂場で遊べなくなり、建物の中に砂場を作り、オーストラリアから砂を取り寄せていた時期もあるそうです。
この様子が、読売新聞と福島民報、TUFテレビのニュースで紹介されました。

キワニスクラブでのスピーチ終了後、一路、警戒区域の浪江町へ!
浪江町の笹谷仮設の元自治会長の熊田さんに案内していただきました。

熊田さんの住んでいた家や請土小学校などを見て歩き、学生たちも衝撃を受けていました。
同時に、原発から5kmくらいにもかかわらず、線量が宮崎と変わらないくらいの地域で、福島市の1/4くらいの放射線量でした。20km圏内という線引きで復興が遅々として進まない町の苦しみの深さを再認識しました。

0 件のコメント:

コメントを投稿