2015年9月11日金曜日

被災地ボランティア8日目

文責:宮崎学園短期大学 田代茜
 今日は、午後から寺内仮設で松野さんという方にお話を聞きました。津波が来た時の写真を見ると2階建ての家の2倍の津波を見ました。中2と小6の子どもだけ避難をさせるという選択をして、行くときにお互いに手紙を渡したそうです。子どものメッセージの中には、もう会えないかもしれないと書いてあったり、気遣いがすごくあったそうです。どんな時でも前向きでいる子どもの強さは、とても印象に残りました。北海道に移動した時、「福島の住所を移したくて引っ越してきたんでしょ?」と言われた時もあったそうです。
 また、私が驚いたことは、第1原子力発電所を作った人に松野さんが話をすることがあり、その時言っていたのが「原子力発電所の近くの魚は絶対に食べない」でした。小高地区は、若い年代が2割になりました。震災の被害ではなく、原発での被害でこのようなことになってしまったことがとても残念でした。
(震災の時の出来事や思いを語る松野さん)

 地震に備える上で大切なことを聞きました。避難する際に避難する場所を2箇所きめておくこと、その際どっちかにいると信じて自分は逃げること、ハンコを一つ身につけること、その理由として、通帳がないため、ハンコが必要となると聞きました。

 次に野球場に行きました。この野球場は、避難していくときにグラウンドに逃げる人と観客席に逃げる人が居たそうです。そこへ津波がきました。グラウンドにいた人は、どんどん水が入っていく中で洗濯機のようにぐるぐると回り無くなっていき、観客席にいた人はその様子をみることしかできず1時間以上そこにいたということがあったようです。ここで野球の試合がスタートしたそうです。私は、このような大きな災害で54人が亡くなった場所で再び野球をしてもいいのかと疑問に思いました。
(野球場での慰霊碑に手を合わせる学生)

 次に奇跡の一本松に行きました。ここでは、震災前はたくさんの松林でした。しかし、津波があり他はだめになってしまいましたが、一本だけ残っていました。青空とともに残っている一本松は寂しさを感じました。
(松林から唯一残った一本松)

 最後に渡辺さんからお話を聞きました。その中で感動した話は新潟県から連絡があり、南相馬から新潟県に避難しました。新潟と言われてもどこに避難すればいいかわからず車で走っていて新潟に入ったら、「南相馬の皆さん、避難所まであと20キロと書かれた看板があり、それが5キロおきにあったそうです。どこに向かえばいいのかわからなく、不安のあった状態から見通しがついたときは、安心感がうまれただろうなと思いました。また、看板をつけていた新潟の方は本当にすごいなと思いました。
 私が一番残念だったことは、小高区の避難指示解除準備区域が解除された時保育園へ登園させますか?というアンケートをとったそうです。その結果登園させたいと答えた人は0人でした。この結果に私は非常にショックを受けました。
(地図を利用して渡辺さんの原発からの距離を説明する様子)

今日は、たくさんのお話を聞きました。津波で地元がなくなる悲しみは、私たちが想像する以上に悲しいし、今後が心配になるだろうとすごく考えさせられました。







文責:宮崎大学1年 井上翔
 今日も社協でボランティア活動を行いました。ハウス解体と家財出しをしたのですが、人数が多く役割分担をして効率よく作業を進めることができました。前日の反省を生かし、考えて積極的に行動できました。昨日同様、私たちの他にも被災地をサポートしたいという学生が参加していて、お互いのことを話すなかで良い刺激を受けることができました。社協での活動は2日間と短かったのですが、被災地を支援しようという人が4年半たった今でも多くいると分かり嬉しく思うと同時に、まだまだ支援の手は必要だと思いました。
             
 (社協での活動を終えたメンバー)
 
 その後、ずっと見たかった南相馬かしまの「奇跡の一本松」を見に行きました。東日本大震災の大津波に耐え今もたくましくそびえ立つ松は、震災の困難に負けず今も闘い続ける被災された人々を象徴しているようでした。青空も美しく、一本松の力強さが引き立っていました。
 
 寺内仮設の松野さんの話では、福島以外の人々も放射能に対する意識を高めるべきという主張が印象的でした。原発は多くの恩恵をもたらすことを引き換えに、人々の生活を奪うという大きなリスクを伴います。自分も含め、もっと危機感を持つべきだと思いました。松野さん自身もお子さんをお持ちで、子どもを守るために毎日必死だったそうです。そうやって苦難に立ち向かう姿は、やはりたくましく思いました。
 (お話をしてくださった松野さん)

 南相馬市議会議員の渡部さんにお話をうかがいました。南相馬で避難にあった人は新潟県が受け入れてくれたそうです。新潟県は2007年に新潟中越沖地震を経験しているのでスムーズに受け入れができたそうです。震災から学んだことが生きていてすごいと思いました。また、震災後に小学校に児童数が極端に減っている資料を見せてもらい、多くの子どもが被災地から離れていったり、廃校になる学校があることが分かり、震災によって生活が奪われていくのが悲しく思えました。国からの補助金が出ない地区には市が援助金を出すなど、きちんとしたサポートが市によってなされていると感じました。渡部さんは市の代表として実際に自衛隊の方と一緒になって捜索活動をし、たくさんの悲しい場面を目にされたそうです。多くの人の幸せを奪った東日本大震災を忘れてはいけないと思います。
 
 明日は岩手や宮城など津波の被害を受けた地域を見に行きます。多くのことを学び、考えていきたいと思います。







文責:松崎喜代治
 今日も社協のボランティアセンターに行きました。今回活動ではビニールハウスの解体と家財道具の運び出しをしました。家の敷地内には猪の足跡がありました。野生動物による被害が多いということが分かりました。依頼主の方に戻れるようになれば戻りますかと聞いたところ、周りの人は戻らないので一人では戻りたくないとおっしゃいました。一度ヒア跡がいなくなった街に人が再び戻るには時間がかかると思いました。
 社協のボランティアセンターでの活動が早めに終了したので寺内仮設に行きました。そこでまごころサロンの松野さんのお話を聞きました。震災当初、風評被害により福島県の方の結婚が破談になったり、職場をクビになった人がいるという話、避難した先で「住所を変えるために来たのでしょ、賢い選択ですね。」という話を聞き当時の風評被害の大きさを知ることができました。印象に残ったことは家族で決める避難場所は二か所決めること、ということと合併しない村や町にはそれだけの財源を確保し続けることができる街で発電所などがある地域が多いということを知ることができました。
 

南相馬の復興商店街や鹿島の一本松を見て、南相馬市の議員の渡部さんに話を聞きました。南相馬市の方が被災されたとき新潟の人から電話がかかって来て避難民を受け入れる準備があるから向かわせていいよといわれたそうです。向かう途中にも「避難所まであと○キロ、頑張れ。」とあったそうです。新潟県は中越沖地震の経験をきちんと活かしていてすごいこと思いました。また震災後、線量計も無く線量も分からない状態で行方不明者の安否確認に自衛隊の方と一緒に行かれてとても勇気ある行動だと思いました。                    








文責:宮崎公立大学1年 日高 綾
 今日の朝はラジオ体操をしに行った後、初めてミサに行きました。そのお祈りの中に、東日本大震災で亡くなった方達の為へのものがありました。こううして毎朝お祈りしている人がいると知ることが出来、改めて震災のことを風化させては行けないなと感じました。そして昨日と同じく社協へ行き、今日はハウス解体と家具の移動をしました。今日も参加人数が多くて、午前中に作業が終わってしまいました。
(ラジオ体操後)

 その後は寺内仮設の松野さんにお話を伺いに行きました。松野さんは実際に津波の恐怖を経験している方で、私は初めてその話しを聞くことが出来てとても良い経験になりました。松野さんが住んでいた場所は津波が来ないと言われていた地域で、他にも全く被害のないところだったそうです。この震災が起きなければ…と言っていました。そして放射線量も多かったので、子どもたちだけ遠方に避難させたのですが、もう子どもと会うことは出来ないかもしれないと思い、子どもとそのような内容の手紙を交換したそうです。
(寺内仮設で撮った集合写真)

 その次に南相馬市の奇跡の1本松を見に行きました。何も無いところに1本だけ立っていて、震災前の松林の写真と見比べてもそこに林があったなんて想像できないくらいでした。私の通っていた中学校の裏にも松林があったのですが、津波の威力はものすごいものだなと改めて実感しました。そして、もしもそこがこんな光景になったらどんな気持ちがするだろうと思いました。
(奇跡の1本松)

 次に、仮設住宅に住んでおられる南相馬市市議会議員である渡部寛一さんにお話を伺いました。渡部さんは震災前や震災後について資料をくれながらとても詳しく話して下さいました。その中で驚いたのは、小高の保育園に通っていた子どもを持っているお母さんたちに震災後に行ったアンケートで小高に戻りたいという人が0人だったことです。また、戻ろうと思っても問題が山積みで戻ることが出来ないそうです。

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