文責:宮崎大学 川島美咲
今日はりょうさん、むつきさんと別れ、3人で南三陸と気仙沼の視察に行きました。宮崎県国富町の畳屋さんが送ったのある馬場中山の公民館や、テレビでよく見る南三陸の防災庁舎なども見ることができました。
午後には歌津中学校に伺いました。2011年5月に宮崎大学アースウォーカーズの先輩が卒業式のお手伝いに訪れた中学校です。
ボランティアの人が作ったスリッパラックや棚の裏によく見知った名前を見かけて、感慨深いものがありました。
震災当時からいらっしゃる先生にもお話を聞くことができました。震災直後に手作りの卒業式で巣立っていった学生と同い年である私が今回ボランティアに来たことに、時の流れの速さを感じておられたようです。
ある先生が、「私は家を建てて仮設から出られるように、いま、精一杯働いているんです。被災者は『自分たちは被災者だから、、、。』と支援していただけることを当たり前のことだと思ってはいけないと思う。」と仰っていました。地元の人々の「元の生活にもどる!」という強い思いと、その思いを支えるボランティアの両方が大切なのだと感じました。
文責:宮崎大学 遠矢聖仁
今日は北上し気仙沼や南三陸へ向かいました。
津波によって甚大な被害を受けた地域であり、至る所で線路のレールが途中で途切れていたり、携帯ショップやコンビニがプレハブであったり、復興が進んでいるとは言いますが、大き過ぎた被害の傷跡がまだまだ残っているように感じました。
南三陸町にある歌津中学校へ行くと、運動場の半分近くが仮設住宅になっておりその異様な光景に驚きました。運動場ではその狭くなったスペースを更に分割して、野球部とサッカー部と陸上部が部活動に励んでいて、私たちが前を通ると、全員が声を揃えて挨拶してくれたのですが、こちらの方が背筋が伸びたし初めての体験で少し感動しました。
この野球部は震災当時、学生は全員無事だったものの、コーチである三浦毅さんは、南三陸町の防災課に勤務されていたため、津波が押し寄せる中、最後まで職務を全うし亡くなりました。
直後に作られた野球部の子どもたちの文集には、亡くなったコーチと共に全国大会を目指したいという作文が書かれてあり、玄関の所に飾られていた野球部の地区予選の優勝旗を見て、こみ上げるものがありました。
また、震災直後ニュースなどによく取り上げられていた防災庁舎へも行き、手を合わせ来ました。
驚いたのは、今でもかなりの数の献花とお供え物がされていたことです。自分たちが行った時にも、県外から来た人が立ち寄っていました。
震災から4年近くが経過して震災に関する報道も減り、宮崎で普通の生活をしていると、なかなか震災を思い出す機会がありません。
防災への意識を高めて日頃から備えることで、もし同じ規模の震災が起こっても、最小限に被害を抑えようとする努力が、震災を悲しい過去で終わらせないということに繋がるのだと思います。
今回の野球部や防災庁舎、津波で息子を失ったお母さんの話から、
一つの東日本大震災のという災害の中に悲しいお話は語り尽くされないくらい溢れていて、
先日聞いた『「1万人の亡くなった事故」ではなく「1人の人間が亡くなった事故が1万回起こった」のだと捉えて欲しい』という言葉を強く思い返しました。
地震や津波などの天災は、防災によっていくらか被害は小さくできるものの、やはり限界があるように思います。
しかし戦争や原発事故などの人災は、人間の努力次第でいくらでも防げるものです。
人が作ったのものによってこれほどまでに、そしてこれから先も、人や動物や自然が苦しめられるという現実。
害を与えず処理ができていない時点で、エネルギーとして成り立っていないのだと改めて感じました。
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