2018年3月7日水曜日

被災地ボランティア @福島 5日目

文責:浦郷一哉
 今日は浪江町へ向かいました。通った道路の両側は帰還困難区域となっており,ほとんどの道が通行止めとなっていました。付近の小学校や中学校は立ち入り禁止となっており,周囲の地面からは1.9~2.4μSv/h程度の高い線量が検出されました。線量計の測定範囲を超え,10μSv/h以上の数値が出る場所もありました。



車で移動している最中には線量計のブザーが鳴り,局所的に線量が高い場所を通ることもありました。また,熊田さんの話によると浪江町から配布されている線量計は他のものと比べて低い数値が表示される傾向があるそうです。今回は環境分析研究所からお借りした線量計と並べて計測しました。計測の回数が少ないので確定できませんが,そのような傾向がみられることはありました。

はじめに浪江町にある希望の牧場を訪問しました。経営者の吉沢さんからお話を伺いました。原発からの距離は14kmで当時は建屋の爆発音や自衛隊が作業する音が聞こえたといいます。この牧場では原発事故の際に被曝した牛,約300頭を育て続けています。この牛は行政から殺処分するように指示が出ており,被曝しているため出荷することもできません。それでも吉沢さんは原発事故後に生き残った牛を育てています。「この牛たちが生きている間に原発を無くすんだ」と力強く語ってくださいました。



 牧場には他の牧場の写真も展示されていました。警戒区域内では牛が牛舎につながれたまま餓死したり,被曝した牛に白い斑点が出るなど動物たちに突然変異が見られることもありました。自殺した酪農家の遺言も残されていました。事故後に自殺した酪農家は数多くいるそうです。原発事故の影響の大きさを改めて感じました。
 
 次に熊田さんの自宅があった場所を案内していただきました。山の向こうに原発が見える場所でした。海の近くで更地が広がっており,白い壁で囲まれた広大な放射性廃棄物置き場がありました。震災当時の建物がいくつか残されており,津波の破壊力を物語っていました。津波が来る前に迅速に避難したため全員が無事だったという請戸小学校も見ることができました。この小学校では前日に津波が来た場合の対応を話し合っていたため,犠牲者を出さずに済んだといいます。近くの請戸漁港は整備が進み多くの漁船が停泊していました。町の中心部でも当時のまま残されている建物を見ることができました。

浪江町の人口は震災前約20,000人でしたが,現在は500人程度だということです。昨年3月に避難指示が解除されましたが戻ってくる人は少ないということです。7年近く人がいなかった所で暮らしていくのは難しいとのことです。
 
 南相馬市の集会所でお年寄りの方々のお話を伺いました。「軽トラックで避難しているときに津波に巻き込まれ,助手席から投げ出されたが助かった.運転していた奥さんは亡くなった」,「高いところに上り助けを呼ぼうとしたが声が出なかった」,「中学校を卒業したばかりの双子の子どもを助けることができなかった」,「おじいさんが子どもを迎えに行かなければ自分の子は助かっていたと思う。それが原因で離婚した」など衝撃的な話ばかりでした。そのような経験をした人たちが集まれる場所を提供してくれるのはありがたいともおっしゃっていました。


 
 スーパーを経営している中島さんからは生業訴訟のことを伺いました。この訴訟は約3800人が原告となっており,原発に関連する訴訟の中で最大です。国は被害者の心情を理解せずに科学的には安全だと言い続けているそうです。一般市民は放射能に関する知識が十分でなく,よくわからないものに対して恐怖心を抱くのは当然のことだと中島さんはおっしゃっていました。また,賠償金の有無によって住民を対立させ,国に対抗するエネルギーをなくすことも国の狙いだといいます。中島さんたちは公害問題を経験した弁護士とともに戦い続けています。



 福島市に戻り,アースウォーカーズのプロジェクトでドイツへ行った高校生の伊藤さんやドイツの大学院で福島について調査しているマリさんからお話を伺いました。伊藤さんはドイツに行ってから放射能などについて関心を持つようになり,日本に戻ってから積極的に活動しています。しかし先生や友達は無関心な人が多く,話を聞いてくれる人は少ないといいます。ドイツでは放射能について早い時期から教育が行われており,関心が高い人が多いそうです。マリさんは日本人がなぜそんなに無関心でいられるのかがわからないといいます。



吉沢さんは現在の「まあいいか」から「どうでもいい」となり最終的には民主主義が崩壊してしまうと警鐘を鳴らしています。若い世代が関心を持ち,声を上げる必要があると感じました。

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