2022年3月14日月曜日

福島フィールドワーク2022 5日目(3月14日)

 私は午前中に大和田集会所に訪れ、この地区の自治会長の熊田さんにお話を伺った。

熊田さんは震災前は請戸小学校の近くに家を構えていた。地震が発生した時は車で10分のところにある海から山を挟んで反対側の職場にいたそうだ。

揺れがおさまってから自宅に戻ると、家にいた家族は避難の準備をしていたという。それを手伝い、再び熊田さんは職場に戻った。地震発生から翌日に、原発事故があったため、会社の社長から避難指示が出ていることを知った。

熊田さんは家族と共に車で避難所に向かった。本来30分かからない道のりも、このときは渋滞で2,3時間かかったそう。当初は福島県内の避難所に避難したが、その後山形県内の避難所に移動したらしい。

熊田さんの孫はもともと請戸小学校に入学する予定だったが、震災後は避難先の山形県内の小学校に入学した。しかし、避難所を転々とする間に孫は2回転校したそうだ。

福島を離れてから初めて福島に戻ったのは4月15日。およそ一ヶ月後のことだった。


福島に戻ってからは仮説住宅に入居した。このとき熊田さんは2年半自治会長を務めたそうだ。そして現在の住まいに転居した。この地でも自治会長を務め、4年半やっているという。

震災後から熊田さんには変化があったそう。それは、人との交流を大切にすることだった。

人と人との関係を良くするために、自治会で様々なイベントを企画した。現在も福島コープさんの協力を借りながら、同じく避難で移住した方と交流ができる機会を作るために色々なことを企画しているそう。

熊田さんは最後に、震災のことを忘れないで欲しい。風景は違うけど、現地に見に来て欲しいと語ってくれた。


熊田さんにお礼を言い、次に向かったのは環境分析研究所である。ここでは放射性物質を測定するための機械「ゲルマニウム半導体検出器」が設置されており、福島県内の野菜や土壌等の放射能を多く含んでいる可能性のあるものを調べている。

今回私は、こちらに川俣市で収穫された大根を持ち込み、どのくらい放射能を含んでいるのかを説明も兼ねて測定してもらった。

まず前処理で大根についている土を洗い流すために水で洗った。土から放出される放射線を記録させないためである。次に、人体に影響が出る可能性をみるため、可食部分のみを残し、皮や葉の部分を切り、取り除いた。本来なら食材はミキサーで細かく砕いて容器に入れるのだが、持ち込んだ大根では量が足りないため今回は一センチ四方のサイズにカットした。

その後、測定する容器、マリネリ容器という底の部分が凸の形をした容器にビニールを入れ、隙間がなくなるように詰め込んだ。

あとはゲルマニウム半導体検出器に容器を入れる。放射線を内外で遮断するために鉛で作られた分厚い壁でできているそう。扉を閉めたらいよいよ検査開始。



30分後。検出器まで戻ってくると、作業をしてくれていた方が検査結果をまとめてくれていた。

結果は、異常なしとのことだった。理由としては、10年以上経った今は空気中に放射能が漂っていることはほとんどなく、降っていないからだそう。また、大根は土の中で育つため、外気に触れることはほぼなかったからだという。

今回はこのような結果になったが、ここでは実際に放射能が検出された計測結果も見せてもらった。2012年の2月に基準米という他の施設の検出器との整合を図るための玄米を計測したものだ。

この時の結果は「セシウム134」と「セシウム137」という元素が高い数値で検出されていたのが分かった。福島原発事故後はこの二つの元素がたまたま1体1で飛散したという。このうち「セシウム134」の半減期は2年なので、10年の間でほとんどなくなっているが、「セシウム137」の半減期は30年なのでまだ半分にも減っていないという。

さらに施設の方からチェルノブイリ原発事故と福島原発事故の健康面での違いについて話してくれた。福島では汚染された土壌で育てられた食材を避けて海産物や他県の食材を食べることができたが、チェルノブイリでは作物が育たないため、山菜やきのこを食べていたそう。

山は天候に関係なく汚染されてしまうため内部被ばくをした方が多かった。また、汚染された牧草地の草を食べた家畜から間接的に内部被ばくをした方も多かったという。

最後に菊池さんは、11年の月日が流れて放射能が検出される場所も少なくなり、今はもう大丈夫だよと笑って話してくれた。


2022年3月13日日曜日

福島フィールドワーク2022 4日目(3月13日)

 今日は福島のリフレッシュプロジェクトとして、雪遊び体験を行った。


朝早い集合にも関わらず、眠気よりも好奇心が勝った子どもたちはバスの中でも元気だった。スキー場に到着すると、市長がお出迎え。

なんと今回は、閉場したスキー場を今回のために開けてくださっていた。ほんとうにありがとうございます。

昼食の準備ができるまで、外で雪遊びの時間。ソリで滑ったり、雪玉を作ったりと各々がやりたいことをやっていた。


昼食の準備が整うと休憩所に集まってお昼ごはん。今回は出前を取ってラーメンを食べました。寒いところで食べる一杯は格別です。




食べ終わった子どもから午後も雪遊び。スノーチューブが新しく遊び道具に加わり、思い切りはしゃいだ。


スキー場施設の方にみんなで感謝を伝えると、スキー場を離れた。


その後は温泉タイム。感染症対策で入った場所はそれぞれだけど、とても気持ち良さそうに浸かってました。冷えた身体を温めたところで、今回は解散。最後まで元気いっぱいでした。

今日はフィールドワーク中に初めて福島でのリフレッシュプロジェクトにボランティアで参加させてもらった。宮崎では海の中で子どもを波に乗せる手伝いをしていたが、雪遊びはそれ以上に体力を使うことばかりで驚いた。このとき一緒ボランティアとして参加していたタカヒロくん、マリさん、ミタニさんは私よりもテキパキ動くので圧巻された。ただ、私も子どもたちと楽しく過ごせたので満足だった。



私は明日から再び、福島で震災や原発事故のお話を伺う予定だ。

2022年3月12日土曜日

福島フィールドワーク2022 3日目(3月12日)

3月12日 文責 梅田優哉 

私はこの日、福島30年プロジェクトの代表理事である清水さんにお話を伺った。



清水さんはネットショッピングで個人で販売している山菜を購入し、その山菜にどのくらい放射線が含まれているかを計測し基準値を上回ればその山菜が取れた地域の保健所に連絡するなど、人々の暮らしを守る活動を行っている。


事務所には、空間や体内などの放射線を測るための計測機がいくつもあった。特に印象的なものは空間を測るための計測器だ。被災地周辺に置かれている放射線量を計測しているモニタリングポストと同じ構造をしており、銀の棒に放射線が当たったらそれを電気信号にし、メモリに反映させるというものだ。実際に使わせてもらって、場所により数値に違いが出て放射線が身近な所にもあることが実感できた。



清水さんは放射線は地震や津波と違い目に見えないため、怖がる人は少ないという。しかし放射線を浴び続けると、身体の細胞は破壊され、これを起点にして合併症を引き起こすのだという。原発事故が起きた当時のことを聞くと、福島原発周辺の住民は事故後、一斉に避難をし始めたが、海岸沿いは瓦礫で道が塞がれ別のルートから避難所を訪れたが、行く先々で一杯だと断られてしまったそうだ。

特に患者は避難先でも治療ができるとは限らなかったため、大変さを極めたという。私は放射線が招く人体への影響の恐ろしさを感じると同時に、放射線に向き合い人々を支援する清水さんの活動はとても素晴らしいと思った。


清水さんとはここでお別れし、午後から渡辺さんとお会いした。



対談の前に、私は渡辺さんの子ども二人と「PEP Kids こおりやま」で遊んだ。二人ともとても元気に走り周り、初対面の私に臆することなく楽しんでいた。



施設を出たあと、私は渡辺さんに震災後のお話を伺った。


当時からいわき市に住んでいたが、震災時は独身で子育てに関して何も考えなかったが、いざ自分が子どもを持つと、放射線が人に及ぼす影響を考えて地元の食材を子どもに食べさせないようにしたそう。また、福島の海にも入らせず、落ち葉や土、雪にも触らせないよう徹底した。


そんな中、宮崎のこんねキャンプに初めて子どもと参加した。始めは不安だったが、子どもは宮崎をすごく楽しんだそうだ。



宮崎で初めて魚を食べさせたときも美味しいと言って食べ、人参の収穫体験の際も土から抜いてすぐにかじり、甘いと言って喜んでいたそうだ。それを見た渡辺さんは、ここなら自由にさせてあげられると思ったそう。渡辺さんは終始、保養キャンプの話には明るく話してくれた。



渡辺さんと子どもたち二人にお別れを告げて、私は八代さんと合流しお話を伺った。


八代さんは震災当時は独身で、家に居る時に地震が発生し、周りの家も瓦が落ちて割れる音がずっと聞こえたそう。家の屋根を直すために八代さんは業者に来てもらった。その時に出会った大工が今の主人だそう。

子どもを産む時に、八代さんは県外に移住することを考えたが、祖父母のこと考え福島で子どもを産み、福島に住み続けることを決意したそう。

娘が1歳半の時に八代さんは初めて子どもと保養に参加することにした。京都での保養だったが、娘はその場の雰囲気に合わずそれが苦痛になり途中で帰ることにしたそうだ。もう一度今度は三重での保養に参加したが、そこでも娘は苦痛を感じたそうだ。




八代さんはそれからしばらく保養に参加することをやめた。しかし小玉さんの熱心な誘いで、宮崎の保養参参加することにした。そこでは今まで参加した保養と違い、学生ボランティアがお世話するのも大変な子どもたちの遊び相手になってくれたり、親たちの話にも向き合ってくれた。八代さんはそのときとても助かったという。

八代さんはいつまででもここにいたかったと感じるほど、宮崎の保養企画が楽しかったそうだ。

細かく震災後の話を聞かせてくれた後、八代さんが震災から考えたことも話してくれた。震災は良いものではなかったが、一概に悪いとは言えなかったという。それこそ八代さんは震災があったからこそ主人と出会っていた。


八代さんいわく、その出来事をプラスととるかマイナスと取るかは自分次第なんだと語ってくれた。また、主人は自分が被害者と言ってはいけないといつも言っているのだそう。原発事故も未然に防げたのにそれをしなかったのは私達。なのに事故後は被害者として振る舞うのはおかしいのだという。

八代さんは最後に、これからの若者には出来事の本質をみる力を身に着けて欲しいと話してくれた。

今日は3人からお話を伺った。話を聞いている中で、放射線を計測したり、食材を避けたり場所を避けたりと向き合い方は人それぞれだが、放射線量を不安視する方は今も多いことが分かった。しかし、保養に行ったことで子どもたちが喜んでくれたことを嬉しく思う親は多いことから、保養を企画する意義が感じられた。

明日は福島で雪遊び体験にボランティアとして参加する予定だ。

2022年3月11日金曜日

福島フィールドワーク2022 2日目(3月11日)

 3月11日 文責 梅田優哉

この日は、福島市の高校を卒業し東京の大学に行っているみゆさんと、埼玉の川野さんと合流して、福島市から南相馬市へ移動した。コロナの影響もあり対面ではなく、電話で南相馬市の松野さんに震災当時のお話を伺った。

松野さんの家族構成は、松尾さんと旦那さん、子ども二人、そして父方の父母の6人で暮らしていた。松野さんは自宅で一人で過ごしていたときに地震が発生した。揺れがおさまってからテレビをつけた。テレビでは3メートルの津波がくる恐れがあると報じていたが、実際には50cmほどだろうと考えていたため、散らかった部屋を片付けていたそうだ。


子どもを学校に迎えに行くために車で学校で向かった。それから毛布を取りに一度自宅に戻り、再び学校に向かっていた途中でバックミラーに波が写ったのが見えた。それから急いで学校に戻ったという。その間、助手席の子どもはずっと後ろの波を見て娘は電信柱の2倍くらいあったと話していたすだ。

松野さんの旦那さんは漁業を営なんでいたそうで、地震が起きてから津波に備えるために船を沖に出す準備をしていた。沖に出てからは船よりも大きな波が向かってきていたそうだ。旦那さんは海の知識を持って波を乗り越え、イカリをおろし、海の上からただ流されていく町を見ているしかなかったという。

祖父母も地震が起こってから高台に避難し無事に助かったという。しかし、その高台からは流される屋根や車が見えたという。

こうして6人が無事に助かったのだが、避難所を訪れる話になった時に、周りは助からなかった人がいるのにみんな助かった私たちがここに入って良いのかと考えたそうだ。結局、避難所を実際に訪れることはせず、被害のなかった身内の家に避難させてもらったそう。

松野さんはこの時、助からなかった人とそうでなかった人の温度差がはっきりと分かれ、助かってもそれを喜べる雰囲気ではとてもなかったという。

話を伺っていると車は請戸小学校に到着した。津波の被害を受けた地域の小学校であり、当時の教員や地元の人たちの判断で避難を促し、犠牲者が出なかったという学校である。

 建物の損傷は津波の恐ろしさを物語っていた。教室の壁紙はほとんど残っておらず、天井から鉄筋や配線がぶら下がっていた。


 要所要所に立っていた案内板にはこの部屋が保健室や教室であることを教えていたが、そのことを知らされていなければ何の部屋なのか分からないほどだった。


津波の高さが記録されていたが、人の身長の二倍以上あることをみて驚いた。

その後、取り壊されないまま残っている建物を拝見した。一階部分には津波が通過したことで風穴が空いたように壁は破られ、フレームは歪んでいて立っているのも不思議な状態だった。家の庭と思わしき場所にはトタンの屋根で作られた簡単な雨除けの下に、まだ新しい花が生けられていた。

午後は伝承館を訪れた。震災が起きた日ということでキャンドルを灯すイベントを準備していた。屋上からは津波が来た海や更地になった土地、奥には福島原子力発電所が見えた。私たちはここで14時46分、震災が起きた時刻を迎え黙祷を捧げた。

伝承館を離れた後、双葉町から大熊町へと車を走らせた。そこではいまも立ち入り禁止になっている区域が多く残され国道6号線からほとんどの道に入れないための柵がつくられ、いまも帰還困難となっている住民の思いを想像すると11年経った福島での被災地を風化させては行けないと思った。

そのあと福島駅前のキャンドルナイトを訪れた。ここでは伝承館同様にキャンドルづくりができ、それを夜に灯し3月11日を過ごすというものだった。私はこの空間で今日みた景色を思い出しながら過ごした。


この日は実際に被災した土地を見てきた。津波の爪痕が今も多く残っていることを受けて被害の大きさを実感した。そして、今後このような災害で犠牲者が増えてほしくないとも思った。

明日は震災後に保養に行った方のお話を伺う予定だ。

2022年3月10日木曜日

福島フィールドワーク2022 1日目(3月10日)

310日 文責:梅田優哉 宮崎大学工学部1年



 昨日9日に宮崎空港を14:10発の飛行機に乗り、東京経由で山形空港に到着した。途中、山形県米沢市で働く相田さんと日曜日の雪遊びの打ち合わせも完了し、無事に福島のアパートに到着した。


 今日、私は福島市の福島税務署周辺を訪れた。税務署の東には放射性物質で汚染された土が集められ、置かれていたそう。現在は別の場所に移され、土地だけが残っていた。


 しかし、税務署の南には、今も仮住居施設が残っていた。


 私たちはさらに税務署の北に位置する信夫山に移動した。中腹あたりには放射性物質の除染で土が詰められたフレコンバッグがいくつも並んでいた。


さらに上に登りとある公園を訪れた。一見するとなんの変哲もない公園だが、以前までは子どもが入れないように柵がしてあったそう。土が放射能で汚染されていたそうで、表面の土を剥がして新たな土を敷いた後、ようやく開放されたそう。

 私はこの日、横田さんが経営する「INO CAFE 2nd」を訪れ、昼食をいただきつつお話を伺った。




 横田さんは震災当時、三階建ての会社におり、地震を知らせるブザーが鳴ったときは今まで聞いたことのない音でびっくりしたという。その直後に感じたことのない揺れが起きた。揺れがおさまっても余震が続いたため、横田さんもお客もなかなか一階に降りれなかったそう。




それでも何とかお客と一階まで降り、車で自宅に帰ろうとした。会社から自宅までは20分ほどの道のりだが、渋滞や余震で1時間もかかったという。横田さんの暮らす家には中学生の息子と両親、そして弟とその家族が共に住んでいたのだが、家には生徒会役員で卒業式に関わっていた息子がいたという。息子は卒業式が終わり帰宅し、ちょうどカップ麺を食べようとしたころに地震が起きたそう。弟は専門学校の先生をしており、その学校でも卒業式を行っていた。地震が起きてから弟も自宅に帰ると、横田さんと弟は安心のあまりハグをしたのだという。


 横田さんが見たこの日一番大変だと思った出来事は、高校の合格発表だ。通常は本人が合否を見に行くのだが、地震が起きてから学校では会議で揉めたらしい。その末、生徒の代わりに先生が一校一校見て周ったそう。地震の影響で物流がストップしてしまったため、コンビニから物がなくなり、車に給油しようにも夜中から並ばなければいけなかった。



 15日に原発で二回目の爆発が起こった。この爆発で放射能は飛散し、郡山の東に位置する工業団地では放射能感知機が鳴ったという。従業員はこの感知機の存在を知らなかったという。この感知機が鳴ったことで周辺の地域には避難を促すメールが一斉送信された。このとき既に南会津に移動していた横田さんは何事もなかったという。


 息子は放射能について勉強をしていたこともあって、南会津に移動する前には家中に目張りをするなど対応が速かったそう。横田さんいわく、息子は対応し過ぎなところもあったそうで、学校で出てきた給食の中に地元の食材が使われていることを知ると、内部被ばくを避けるために家から昼食を持参したりなどしていた。それもあって、周りからは変わった子と思われていたのではと横田さんは言う。


 ある時、息子は里親を探してほしいと横田さんに頼んだ。福島に居続けるのは危険だと考えたのだろう。横田さんは保養をしているところを探したが、母子保養はあっても、子どものみの保養は見つからなかったという。この悩みをツイッターで発信すると、コーヒー屋の店主と知り合った。いわく、お客の中に、札幌で保養の企画を考えている人がいるとのこと。その方のおかげで中学3年間はみてもらうことが出来たのだそう。高校からは進学避難ということで北海道の高校を考えた。当日息子は15歳。周りから、一人暮らしさせることを良く思わない人がいることから寮制の高校に進学したという。



 横田さんも内部被ばくを避けるために地元の食材を避け、なるべく福島から遠くの食材を取り寄せた。さらに、水道水も飲まないよう徹底した。この生活を11年間続けているという。



 横田さんは最後に、今でこそ地震や放射能の知識や保養の探し方など、必要な知識は持っているが、時が立つに連れて放射能の怖さを知らない子達が大人になり親になったときに理解がないことで保養を受け入れないところが多くなるのではと危惧している。また、親たちに避難をするように連絡したとき、「どこに?」と返ってくることも多かったそう。温泉宿は避難する人を受け入れていたにも関わらずその情報を掴めていない親は家から動けないそう。このように、受け入れる先を作ってあげることが、必要なのではと話してくれた。



 この日、小玉さんはFMポコにてラジオ出演があったため私も同行した。そこでは齋藤幸子さんと出会い、福島をぜひ楽しんで行って欲しいと言ってくださった。感染症対策により私はスタジオの外からの見学ではあったが、齋藤さんと小玉さんのやりとりは設けられた枠を超える勢いであった。
下記からご覧になれます。15分くらいから30分くらいまで出演してますが著作権の関係で音楽部分はミュートしてます。




https://youtu.be/lXZEd1nRqbc

この日、東日本大震災を経験した方から話を聞き、放射能の飛散がもたらした光景を見た。福島を訪れる前にメディアで取り上げられていた記事やニュースを調べてはいたが、現地で聞いた話や見た光景は調べても出てこない、現地ならではの知見を得ることができた。明日は3.11。津波が襲った町を訪れる予定なので、さらなる理解を深めようと思う。