3月12日 文責 梅田優哉
私はこの日、福島30年プロジェクトの代表理事である清水さんにお話を伺った。
清水さんはネットショッピングで個人で販売している山菜を購入し、その山菜にどのくらい放射線が含まれているかを計測し基準値を上回ればその山菜が取れた地域の保健所に連絡するなど、人々の暮らしを守る活動を行っている。
事務所には、空間や体内などの放射線を測るための計測機がいくつもあった。特に印象的なものは空間を測るための計測器だ。被災地周辺に置かれている放射線量を計測しているモニタリングポストと同じ構造をしており、銀の棒に放射線が当たったらそれを電気信号にし、メモリに反映させるというものだ。実際に使わせてもらって、場所により数値に違いが出て放射線が身近な所にもあることが実感できた。
清水さんは放射線は地震や津波と違い目に見えないため、怖がる人は少ないという。しかし放射線を浴び続けると、身体の細胞は破壊され、これを起点にして合併症を引き起こすのだという。原発事故が起きた当時のことを聞くと、福島原発周辺の住民は事故後、一斉に避難をし始めたが、海岸沿いは瓦礫で道が塞がれ別のルートから避難所を訪れたが、行く先々で一杯だと断られてしまったそうだ。
特に患者は避難先でも治療ができるとは限らなかったため、大変さを極めたという。私は放射線が招く人体への影響の恐ろしさを感じると同時に、放射線に向き合い人々を支援する清水さんの活動はとても素晴らしいと思った。
清水さんとはここでお別れし、午後から渡辺さんとお会いした。
対談の前に、私は渡辺さんの子ども二人と「PEP Kids こおりやま」で遊んだ。二人ともとても元気に走り周り、初対面の私に臆することなく楽しんでいた。
施設を出たあと、私は渡辺さんに震災後のお話を伺った。
当時からいわき市に住んでいたが、震災時は独身で子育てに関して何も考えなかったが、いざ自分が子どもを持つと、放射線が人に及ぼす影響を考えて地元の食材を子どもに食べさせないようにしたそう。また、福島の海にも入らせず、落ち葉や土、雪にも触らせないよう徹底した。
そんな中、宮崎のこんねキャンプに初めて子どもと参加した。始めは不安だったが、子どもは宮崎をすごく楽しんだそうだ。
宮崎で初めて魚を食べさせたときも美味しいと言って食べ、人参の収穫体験の際も土から抜いてすぐにかじり、甘いと言って喜んでいたそうだ。それを見た渡辺さんは、ここなら自由にさせてあげられると思ったそう。渡辺さんは終始、保養キャンプの話には明るく話してくれた。
渡辺さんと子どもたち二人にお別れを告げて、私は八代さんと合流しお話を伺った。
八代さんは震災当時は独身で、家に居る時に地震が発生し、周りの家も瓦が落ちて割れる音がずっと聞こえたそう。家の屋根を直すために八代さんは業者に来てもらった。その時に出会った大工が今の主人だそう。
子どもを産む時に、八代さんは県外に移住することを考えたが、祖父母のこと考え福島で子どもを産み、福島に住み続けることを決意したそう。
娘が1歳半の時に八代さんは初めて子どもと保養に参加することにした。京都での保養だったが、娘はその場の雰囲気に合わずそれが苦痛になり途中で帰ることにしたそうだ。もう一度今度は三重での保養に参加したが、そこでも娘は苦痛を感じたそうだ。
八代さんはそれからしばらく保養に参加することをやめた。しかし小玉さんの熱心な誘いで、宮崎の保養参参加することにした。そこでは今まで参加した保養と違い、学生ボランティアがお世話するのも大変な子どもたちの遊び相手になってくれたり、親たちの話にも向き合ってくれた。八代さんはそのときとても助かったという。
八代さんはいつまででもここにいたかったと感じるほど、宮崎の保養企画が楽しかったそうだ。
細かく震災後の話を聞かせてくれた後、八代さんが震災から考えたことも話してくれた。震災は良いものではなかったが、一概に悪いとは言えなかったという。それこそ八代さんは震災があったからこそ主人と出会っていた。
八代さんいわく、その出来事をプラスととるかマイナスと取るかは自分次第なんだと語ってくれた。また、主人は自分が被害者と言ってはいけないといつも言っているのだそう。原発事故も未然に防げたのにそれをしなかったのは私達。なのに事故後は被害者として振る舞うのはおかしいのだという。
八代さんは最後に、これからの若者には出来事の本質をみる力を身に着けて欲しいと話してくれた。
今日は3人からお話を伺った。話を聞いている中で、放射線を計測したり、食材を避けたり場所を避けたりと向き合い方は人それぞれだが、放射線量を不安視する方は今も多いことが分かった。しかし、保養に行ったことで子どもたちが喜んでくれたことを嬉しく思う親は多いことから、保養を企画する意義が感じられた。
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