私は午前中に大和田集会所に訪れ、この地区の自治会長の熊田さんにお話を伺った。
熊田さんは震災前は請戸小学校の近くに家を構えていた。地震が発生した時は車で10分のところにある海から山を挟んで反対側の職場にいたそうだ。
揺れがおさまってから自宅に戻ると、家にいた家族は避難の準備をしていたという。それを手伝い、再び熊田さんは職場に戻った。地震発生から翌日に、原発事故があったため、会社の社長から避難指示が出ていることを知った。
熊田さんは家族と共に車で避難所に向かった。本来30分かからない道のりも、このときは渋滞で2,3時間かかったそう。当初は福島県内の避難所に避難したが、その後山形県内の避難所に移動したらしい。
熊田さんの孫はもともと請戸小学校に入学する予定だったが、震災後は避難先の山形県内の小学校に入学した。しかし、避難所を転々とする間に孫は2回転校したそうだ。
福島を離れてから初めて福島に戻ったのは4月15日。およそ一ヶ月後のことだった。福島に戻ってからは仮説住宅に入居した。このとき熊田さんは2年半自治会長を務めたそうだ。そして現在の住まいに転居した。この地でも自治会長を務め、4年半やっているという。
震災後から熊田さんには変化があったそう。それは、人との交流を大切にすることだった。
人と人との関係を良くするために、自治会で様々なイベントを企画した。現在も福島コープさんの協力を借りながら、同じく避難で移住した方と交流ができる機会を作るために色々なことを企画しているそう。
熊田さんは最後に、震災のことを忘れないで欲しい。風景は違うけど、現地に見に来て欲しいと語ってくれた。
今回私は、こちらに川俣市で収穫された大根を持ち込み、どのくらい放射能を含んでいるのかを説明も兼ねて測定してもらった。
まず前処理で大根についている土を洗い流すために水で洗った。土から放出される放射線を記録させないためである。次に、人体に影響が出る可能性をみるため、可食部分のみを残し、皮や葉の部分を切り、取り除いた。本来なら食材はミキサーで細かく砕いて容器に入れるのだが、持ち込んだ大根では量が足りないため今回は一センチ四方のサイズにカットした。その後、測定する容器、マリネリ容器という底の部分が凸の形をした容器にビニールを入れ、隙間がなくなるように詰め込んだ。
あとはゲルマニウム半導体検出器に容器を入れる。放射線を内外で遮断するために鉛で作られた分厚い壁でできているそう。扉を閉めたらいよいよ検査開始。
30分後。検出器まで戻ってくると、作業をしてくれていた方が検査結果をまとめてくれていた。結果は、異常なしとのことだった。理由としては、10年以上経った今は空気中に放射能が漂っていることはほとんどなく、降っていないからだそう。また、大根は土の中で育つため、外気に触れることはほぼなかったからだという。
今回はこのような結果になったが、ここでは実際に放射能が検出された計測結果も見せてもらった。2012年の2月に基準米という他の施設の検出器との整合を図るための玄米を計測したものだ。
この時の結果は「セシウム134」と「セシウム137」という元素が高い数値で検出されていたのが分かった。福島原発事故後はこの二つの元素がたまたま1体1で飛散したという。このうち「セシウム134」の半減期は2年なので、10年の間でほとんどなくなっているが、「セシウム137」の半減期は30年なのでまだ半分にも減っていないという。さらに施設の方からチェルノブイリ原発事故と福島原発事故の健康面での違いについて話してくれた。福島では汚染された土壌で育てられた食材を避けて海産物や他県の食材を食べることができたが、チェルノブイリでは作物が育たないため、山菜やきのこを食べていたそう。
山は天候に関係なく汚染されてしまうため内部被ばくをした方が多かった。また、汚染された牧草地の草を食べた家畜から間接的に内部被ばくをした方も多かったという。
最後に菊池さんは、11年の月日が流れて放射能が検出される場所も少なくなり、今はもう大丈夫だよと笑って話してくれた。
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