【小学生たちの波乗り体験で子どもたちの笑顔が広がる!】
この日はいつもの会場が駐車場が満車だっのと波のサイズがダウンしていたこともあり久しぶりに木崎浜での波乗り体験
午前中は堀切峠やフェニックスドライブインでソフトクリームを楽しみながら、海へ移動してランチ!
サポートしてくれるサーフショップニューウェーブの池田雄一プロの波乗り体験が盛り上がり子どもたちの笑顔が広がりました。

砂浜での遊びも楽しかったようです!

東日本大震災から11年が過ぎ福島での原発事故が少しずつ忘れられているような昨今、メディアで原子力発電所を増やすべきだという論調がめだつようになった。
もちろん電気代の高騰や火力発電による化石燃料や二酸化炭素の排出問題はとても大事な問題である。
しかし、ウクライナの戦争でも原子力発電所が狙われ、核兵器の使用をチラつかせるという事が行われている今、
広島・長崎で原子力爆弾を使われ、福島で原子力発電所の事故を経験した私たちが核に依存しない社会構築を真剣に考えていきたい。
なによりどうやったらエネルギーの総量を減らせるのか、ドイツで進めてきたプロジェクトは感動にあたいする。
その上で私たちがどのようなエネルギーを使っていくのが良いのか真剣に向き合って議論していきたい。
そして、原発事故後外遊びを制限されている子どもたちの支援を先日もしてきたので、最後に報告させていただきます。
この日は福島市、伊達市から8人の子どもたちを連れて山形県米沢市に雪遊び!
すでにスキー場は閉めていたので、子どもたちのそり遊びは貸切状態で盛り上がった。
次々に雪の中を駆け上がりそりで滑る親子。
本当に楽しそうで笑顔がいっぱい広がった。
4月に最後の雪遊びに来れてよかった。
美味しい食べ物と貸切スキー場は最高だった。
などの声が寄せられる中、3歳〜13歳の子どもたちが満喫した模様です。
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【最後にお願いです】
東日本大震災から8年目くらいから徐々に寄付が減少していき、現在コロナ禍ということもあり企業からの支援も激減しています。
みなさんにマンスリーサポーターでの協力をお願いしたいです。
毎月一口500円〜十口5,000円を選んでいただき、銀行などの金融機関から自動引き落としになるシステムです。
単発の寄付もとてもありがたいのですが、来月支援できるか?など不安があるときと無い時が差が大変で、可能であればマンスリーサポーターへのご協力をお願いしたいです。
もし、余裕がある方がいらっしゃったら、口数を増やしていただけるととても助かります。
ぜひ前向きにご検討していただき、下記からよろしくお願いします。
https://earthwalkers.jp/cn17/pg621.html
私は午前中に大和田集会所に訪れ、この地区の自治会長の熊田さんにお話を伺った。
熊田さんは震災前は請戸小学校の近くに家を構えていた。地震が発生した時は車で10分のところにある海から山を挟んで反対側の職場にいたそうだ。
揺れがおさまってから自宅に戻ると、家にいた家族は避難の準備をしていたという。それを手伝い、再び熊田さんは職場に戻った。地震発生から翌日に、原発事故があったため、会社の社長から避難指示が出ていることを知った。
熊田さんは家族と共に車で避難所に向かった。本来30分かからない道のりも、このときは渋滞で2,3時間かかったそう。当初は福島県内の避難所に避難したが、その後山形県内の避難所に移動したらしい。
熊田さんの孫はもともと請戸小学校に入学する予定だったが、震災後は避難先の山形県内の小学校に入学した。しかし、避難所を転々とする間に孫は2回転校したそうだ。
福島を離れてから初めて福島に戻ったのは4月15日。およそ一ヶ月後のことだった。福島に戻ってからは仮説住宅に入居した。このとき熊田さんは2年半自治会長を務めたそうだ。そして現在の住まいに転居した。この地でも自治会長を務め、4年半やっているという。
震災後から熊田さんには変化があったそう。それは、人との交流を大切にすることだった。
人と人との関係を良くするために、自治会で様々なイベントを企画した。現在も福島コープさんの協力を借りながら、同じく避難で移住した方と交流ができる機会を作るために色々なことを企画しているそう。
熊田さんは最後に、震災のことを忘れないで欲しい。風景は違うけど、現地に見に来て欲しいと語ってくれた。
今回私は、こちらに川俣市で収穫された大根を持ち込み、どのくらい放射能を含んでいるのかを説明も兼ねて測定してもらった。
まず前処理で大根についている土を洗い流すために水で洗った。土から放出される放射線を記録させないためである。次に、人体に影響が出る可能性をみるため、可食部分のみを残し、皮や葉の部分を切り、取り除いた。本来なら食材はミキサーで細かく砕いて容器に入れるのだが、持ち込んだ大根では量が足りないため今回は一センチ四方のサイズにカットした。その後、測定する容器、マリネリ容器という底の部分が凸の形をした容器にビニールを入れ、隙間がなくなるように詰め込んだ。
あとはゲルマニウム半導体検出器に容器を入れる。放射線を内外で遮断するために鉛で作られた分厚い壁でできているそう。扉を閉めたらいよいよ検査開始。
30分後。検出器まで戻ってくると、作業をしてくれていた方が検査結果をまとめてくれていた。結果は、異常なしとのことだった。理由としては、10年以上経った今は空気中に放射能が漂っていることはほとんどなく、降っていないからだそう。また、大根は土の中で育つため、外気に触れることはほぼなかったからだという。
今回はこのような結果になったが、ここでは実際に放射能が検出された計測結果も見せてもらった。2012年の2月に基準米という他の施設の検出器との整合を図るための玄米を計測したものだ。
この時の結果は「セシウム134」と「セシウム137」という元素が高い数値で検出されていたのが分かった。福島原発事故後はこの二つの元素がたまたま1体1で飛散したという。このうち「セシウム134」の半減期は2年なので、10年の間でほとんどなくなっているが、「セシウム137」の半減期は30年なのでまだ半分にも減っていないという。さらに施設の方からチェルノブイリ原発事故と福島原発事故の健康面での違いについて話してくれた。福島では汚染された土壌で育てられた食材を避けて海産物や他県の食材を食べることができたが、チェルノブイリでは作物が育たないため、山菜やきのこを食べていたそう。
山は天候に関係なく汚染されてしまうため内部被ばくをした方が多かった。また、汚染された牧草地の草を食べた家畜から間接的に内部被ばくをした方も多かったという。
最後に菊池さんは、11年の月日が流れて放射能が検出される場所も少なくなり、今はもう大丈夫だよと笑って話してくれた。
今日は福島のリフレッシュプロジェクトとして、雪遊び体験を行った。
朝早い集合にも関わらず、眠気よりも好奇心が勝った子どもたちはバスの中でも元気だった。スキー場に到着すると、市長がお出迎え。
なんと今回は、閉場したスキー場を今回のために開けてくださっていた。ほんとうにありがとうございます。
昼食の準備ができるまで、外で雪遊びの時間。ソリで滑ったり、雪玉を作ったりと各々がやりたいことをやっていた。
昼食の準備が整うと休憩所に集まってお昼ごはん。今回は出前を取ってラーメンを食べました。寒いところで食べる一杯は格別です。
食べ終わった子どもから午後も雪遊び。スノーチューブが新しく遊び道具に加わり、思い切りはしゃいだ。
スキー場施設の方にみんなで感謝を伝えると、スキー場を離れた。
その後は温泉タイム。感染症対策で入った場所はそれぞれだけど、とても気持ち良さそうに浸かってました。冷えた身体を温めたところで、今回は解散。最後まで元気いっぱいでした。
今日はフィールドワーク中に初めて福島でのリフレッシュプロジェクトにボランティアで参加させてもらった。宮崎では海の中で子どもを波に乗せる手伝いをしていたが、雪遊びはそれ以上に体力を使うことばかりで驚いた。このとき一緒ボランティアとして参加していたタカヒロくん、マリさん、ミタニさんは私よりもテキパキ動くので圧巻された。ただ、私も子どもたちと楽しく過ごせたので満足だった。3月12日 文責 梅田優哉
私はこの日、福島30年プロジェクトの代表理事である清水さんにお話を伺った。
清水さんはネットショッピングで個人で販売している山菜を購入し、その山菜にどのくらい放射線が含まれているかを計測し基準値を上回ればその山菜が取れた地域の保健所に連絡するなど、人々の暮らしを守る活動を行っている。
事務所には、空間や体内などの放射線を測るための計測機がいくつもあった。特に印象的なものは空間を測るための計測器だ。被災地周辺に置かれている放射線量を計測しているモニタリングポストと同じ構造をしており、銀の棒に放射線が当たったらそれを電気信号にし、メモリに反映させるというものだ。実際に使わせてもらって、場所により数値に違いが出て放射線が身近な所にもあることが実感できた。
清水さんは放射線は地震や津波と違い目に見えないため、怖がる人は少ないという。しかし放射線を浴び続けると、身体の細胞は破壊され、これを起点にして合併症を引き起こすのだという。原発事故が起きた当時のことを聞くと、福島原発周辺の住民は事故後、一斉に避難をし始めたが、海岸沿いは瓦礫で道が塞がれ別のルートから避難所を訪れたが、行く先々で一杯だと断られてしまったそうだ。
特に患者は避難先でも治療ができるとは限らなかったため、大変さを極めたという。私は放射線が招く人体への影響の恐ろしさを感じると同時に、放射線に向き合い人々を支援する清水さんの活動はとても素晴らしいと思った。
3月11日 文責 梅田優哉
この日は、福島市の高校を卒業し東京の大学に行っているみゆさんと、埼玉の川野さんと合流して、福島市から南相馬市へ移動した。コロナの影響もあり対面ではなく、電話で南相馬市の松野さんに震災当時のお話を伺った。
松野さんの家族構成は、松尾さんと旦那さん、子ども二人、そして父方の父母の6人で暮らしていた。松野さんは自宅で一人で過ごしていたときに地震が発生した。揺れがおさまってからテレビをつけた。テレビでは3メートルの津波がくる恐れがあると報じていたが、実際には50cmほどだろうと考えていたため、散らかった部屋を片付けていたそうだ。
子どもを学校に迎えに行くために車で学校で向かった。それから毛布を取りに一度自宅に戻り、再び学校に向かっていた途中でバックミラーに波が写ったのが見えた。それから急いで学校に戻ったという。その間、助手席の子どもはずっと後ろの波を見て娘は電信柱の2倍くらいあったと話していたすだ。
松野さんの旦那さんは漁業を営なんでいたそうで、地震が起きてから津波に備えるために船を沖に出す準備をしていた。沖に出てからは船よりも大きな波が向かってきていたそうだ。旦那さんは海の知識を持って波を乗り越え、イカリをおろし、海の上からただ流されていく町を見ているしかなかったという。
祖父母も地震が起こってから高台に避難し無事に助かったという。しかし、その高台からは流される屋根や車が見えたという。
こうして6人が無事に助かったのだが、避難所を訪れる話になった時に、周りは助からなかった人がいるのにみんな助かった私たちがここに入って良いのかと考えたそうだ。結局、避難所を実際に訪れることはせず、被害のなかった身内の家に避難させてもらったそう。
松野さんはこの時、助からなかった人とそうでなかった人の温度差がはっきりと分かれ、助かってもそれを喜べる雰囲気ではとてもなかったという。
話を伺っていると車は請戸小学校に到着した。津波の被害を受けた地域の小学校であり、当時の教員や地元の人たちの判断で避難を促し、犠牲者が出なかったという学校である。
建物の損傷は津波の恐ろしさを物語っていた。教室の壁紙はほとんど残っておらず、天井から鉄筋や配線がぶら下がっていた。
要所要所に立っていた案内板にはこの部屋が保健室や教室であることを教えていたが、そのことを知らされていなければ何の部屋なのか分からないほどだった。
津波の高さが記録されていたが、人の身長の二倍以上あることをみて驚いた。
その後、取り壊されないまま残っている建物を拝見した。一階部分には津波が通過したことで風穴が空いたように壁は破られ、フレームは歪んでいて立っているのも不思議な状態だった。家の庭と思わしき場所にはトタンの屋根で作られた簡単な雨除けの下に、まだ新しい花が生けられていた。
午後は伝承館を訪れた。震災が起きた日ということでキャンドルを灯すイベントを準備していた。屋上からは津波が来た海や更地になった土地、奥には福島原子力発電所が見えた。私たちはここで14時46分、震災が起きた時刻を迎え黙祷を捧げた。
伝承館を離れた後、双葉町から大熊町へと車を走らせた。そこではいまも立ち入り禁止になっている区域が多く残され国道6号線からほとんどの道に入れないための柵がつくられ、いまも帰還困難となっている住民の思いを想像すると11年経った福島での被災地を風化させては行けないと思った。
そのあと福島駅前のキャンドルナイトを訪れた。ここでは伝承館同様にキャンドルづくりができ、それを夜に灯し3月11日を過ごすというものだった。私はこの空間で今日みた景色を思い出しながら過ごした。
この日は実際に被災した土地を見てきた。津波の爪痕が今も多く残っていることを受けて被害の大きさを実感した。そして、今後このような災害で犠牲者が増えてほしくないとも思った。
明日は震災後に保養に行った方のお話を伺う予定だ。